中原中也『中原中也全詩歌集』(講談社)
仁丹を思えば実際目にしたことがない。大学生の頃、ある先生とすれ違うといつも不思議な、薬草っぽい香りがするなと思っていた。あれが「仁丹」だったのだろう。先生のおそらく胸ポケットにつねに仕舞われていた仁丹。噛めば口内がすっきりするものといえばいまはミンティアやフリスクがある。似たようなものなのだろうが、仁丹は食べていなくとも、ただ携帯しているだけでそれほど匂うのだから、その意味ではミンティアなどとは違う。それでも、機能としてはちょっとしたリフレッシュとして、在りし日の中也もミンティアを口に放った。が、放りすぎだ。ミンティア食べ過ぎだ。ミンティアではない、それは正銘の仁丹なのだから、めちゃくちゃ臭いのではないか。はじめ、「十二三個」かと思っていたが、違った。「二三十個」である。何個入りなのだろうか、と思いつつ、ミンティアであればあの薄い箱にたしか50粒。おそらくは手元にあったその箱の、残りすべてを食べてしまった、ということだろう。
なぜかと言えば、「怒りたる」ゆえである。しかも、「怒りたるあとの怒」にまかせて、仁丹を爆食いしている。「あとの怒」というのがおそらくは肝で、突発的な怒りを、そのときはやり過ごしたのか相手がいたからぐっと抑えたのか、けれど怒りは収まりきらなかった。思えば怒りとは、後からじわじわと、ひとりで抱えて反芻するときのそれこそ、真にむきだしの「怒」であるような気がする。怒りはじりじり継続して、いまなおここにある。とかくあらゆる感情を私たちは掴みそびれながら、忘れ、思い出し、たえず揺れているけれど、怒りはなかでもくっきりと、鮮やかなほうであるかもしれない。強い感情であるから、というよりも対象がまずは明らかであり、何について自分は怒っているのか、わかりやすい。正当性を感じやすい。ただ、それをじっさい当該の相手か、べつの手頃な誰かか、他者にぶつけていいものかわからずに、燻るからこそ、後からまた湧いてくる。こみあげる。そこで仁丹の残りのすべてを食べ切る。一粒ずつを食べたのか、それともザラザラと口へ放り込んだのか。破滅行為のようでもあるし、その延長にあるのはオーバードーズかもしれず、けれどそれは薬ではなく仁丹で、猛烈な臭いを放ちながら、感情に任せてあくまで「カリカリと」、おそらくはそれなりの時間をかけて食べきる己のおとなしく、そしてまた地味に漲るちからを思う。
腹たちて紙三枚をさきてみぬ四枚目からが惜しく思はる
