よい方へはころばぬ予感 匙の背にこつこつとわるゆで卵

杉﨑恒夫『食卓の音楽』(六花書林)

なんとなく、懸念の事項があったとして、それにはどうも「よい方へはころばぬ予感」がするという。そのような実感をたもちながら、スプーンの背でゆで卵の殻を割っている。自然と朝食をイメージしたが、もちろん昼食かもしれないし夕飯かもしれない。「こつこつ」と卵を叩く音は、「よい方へはころばぬ予感」と重なり合って、見えない戸を遠慮がちに叩く、乾いた音のイメージを同時に想起させる。どうなるのかわからないけれど、なんとなくよからぬ方へと意識を傾けながら、それでも受け身になりきるのではなく、卵の殻を叩いて割る。能動的な動作がそこにはある。匙の背で卵を割るという行為も、思えばそれがどのくらい一般的な仕草であるかはわからないが、手荒にそのへんの手近な固さのテーブルの角とか、皿の縁とかでごんごん打ちつけて割るような粗雑さはなく、繊細さ、慎重さを感じさせる。

結句「ゆで卵」が5音であり、読みくだせばやはり欠落感を感じる。その欠落感に不穏さや不安定な感じがあらわれているとも、もちろん言えるけれど、実はこの一首は「6/7/5/7/5」という韻律になっており、意味からも二句でいったん切れて、「匙の背に」以降の575と入れ替えれば上の句と下の句は定型により近づく。すると「匙の背にこつこつと割るゆで卵 よい方へはころばぬ予感」となって、四句が6音の字足らずであるものの、こちらのほうが定型には近い。実景からの情という流れもスムーズでイメージしやすい。

こうしてひっくり返してみれば、「よい方へはころばぬ予感」というのが具体的なちからを持って迫るようでもある。それでも、もちろん元の歌がよいのは、やはり「よい方へはころばぬ予感」というのが、具体的な何かを指すと捉えるよりも、初句から開け放されたような唐突な謂いである点で、広がりを感じさせるからだと思う。よからぬ予感は、具体的には示すことのできない何かであり、なんにせよそれとしてある漠然とした不安のことである。逆説も順接もともなわない形で、予感をたもったまま、卵の殻を叩いている。生卵にはない白さというのか、ゆで卵の縮こまったにせものっぽい白さを思い起こす。広がり、と書いたけれど漠然とした不安は広がっていくものなのか、鋭く収斂してゆくものなのか、そのうち霧散するものなのか、匙の背が何度も卵にぶつかっている。

少し長めに生きたることも葡萄パンにまじる葡萄のごとき確率

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です