移動するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ

佐藤佐太郎『帰潮』(1952年)

『帰潮』はとても良い。2014年に縁があって、「未来」の西巻真さんから短歌新聞社文庫版の『帰潮』をいただいてひたすら読んでいた。そのあと、2022年に毎週土曜日の朝にツイッターのスペース上で『帰潮』を一連ずつ読む、という修行を一年ほど続けていた時に思ったのは、良い歌集は時間を空けて読むと前よりも主体との一体感が感じられて、歌の見え方が変わるということだ。短歌を始めたら歌人を二人インストールせよ、と木下龍也は書いていたけど、二人インストールしたあとは明治生まれの歌人から一人選んで、評価の定まった歌集を一冊決めてじっくり読んでいくと短歌はさらにおもしろくなると思う。自分のルーツは自分で選べる。

移動するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ

飛行機が頭上を過ぎていく。初句の「移動する」の漢語の使い方はいかにも佐太郎らしい。飛行機は「飛ぶ」ものだ。しかし「飛ぶ」と言ってしまうと、飛行機の翼やジェットエンジンなどの飛ぶための仕組みをぼんやり意識する。

飛翔するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ(改作)

飛んでしまうと、歌はつまらなくなる。「やや後方の空よりつたふ」の音を聞く感覚を繊細に描写しようとするときに「飛ぶ」は意識過剰なのだ。言葉が極限まで純化されている。佐太郎の歌には「動く」「立つ」「沈む」のような、物の動きや状態を素朴に言い表す自動詞の語彙が豊富に見られる。素朴な把握によって、ごく個人的で感覚的な物の感じ方が前景化してくる。

「こごしき(凝しき)」は辞書的な意味ではゴツゴツとした岩山の様子を示す言葉で、ゴォォォォォ……と遠くから響いてくるものものしい音をうまく表している。大きな飛行機が「移動する」ときの膨大なエネルギーが、音の質感に変わって表れている。戦後から数年、まだ街の至るところに戦火の跡が残っている時期の青山墓地周辺を歩きながら、飛行機の音が近づいてくる。同時期の歌には燃えて黒くなった墓跡や街路樹の様子が描かれる。その中にあってこの歌には、音以外の具体的なイメージがまったく描かれていない。

移動するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ

自分の周りに音が響いていく、街に音が染み込んでいく、音の強さが最大限に大きくなった瞬間、これ以上音が強くなったら自分の身が危ないと思うような、体が反射的に身構えてしまう瞬間、心拍数が一瞬上がる瞬間が「つたふ」なのではないか。言葉のトーンは冷静で、それでいて切迫感を感じる。

玉城徹は『近代短歌の様式』(1974年)の「近代の濾過」で、近藤芳美や宮柊二の歌とともに佐太郎のうたを引いて、歌の特徴をまとめていく。

「かも」とか「かな」「も」「けるかも」「けり」といったふうな詠嘆をあらわす語が一つもないことです。「かも」や「かな」を使用しないということは、わりあいに早くからはじまっていますが、それは、そういった言葉が現代の語感にあわないということがはじめの理屈でした。しかし結果としては、冗語をきりおとす方向をすすめることになりました。(p.10)

文語文法にある詠嘆を示す語はのびのびとした響きを持っていて、臨場感や切迫感とは相性が良くない気がする。「現代の語感」の感じ方は今でもわかると思う。言葉の趣きが出過ぎてしまう。

さらに玉城は冗語がなくても「冗語」があるという。土屋文明の歌〈小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす〉を鑑賞しながら語られるのだが、言及対象に佐太郎も含まれているのでそのまま引く。

文明の作品には、いわゆる「冗語」はほとんどないように見えます。しかも、短歌というものを余りによく知りすぎていたこの作者は、たくみに冗語性をとり入れ、「しをり」をたもっているのです。〈略〉冗語性−~これを問題にしなければなりません。〈略〉それはこれらの作品の自動詞性にあります。〈略〉自動詞(形容詞も同じ)を骨組とする感受性は、その極限として「をり」という動詞に還元してしまいます。(p.36)

「かも」「かな」のような詠嘆の言葉がなくても、「冗語性」はあるという。そしてその冗語性とは、自動詞の感受性だと玉城はいう。

短歌は冗語を無くしていく方向性に向かうだろう、それでも冗語が持っている感受性(自動詞性)をなくすことはできないのではないか、というのが玉城の60年代の感覚であり、短歌全体への問いかけであった。

「しをり」という語の正確な意味は、わたしにはわかりませんが〈略〉「無内容さ」「空虚さ」のもつ風味つまり「しをり」であると考えられます。(p.14)

どれだけ冗語を無くしても、「しをり」の力に引っ張られるのではないか。短歌は「しをり」から離れたり近づいたりしているという。

「をり」という動詞に還元される「自動詞を骨組とする感受性」。これは現在の短歌においてはどう捉えられるだろうか。「しをり」との向き合い方はどうなっているのか、考えてみたい。

(つづく)

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