幸福でありますようにってみんな祈る。雨のなか秀吉は朝鮮へ

瀬口真司『BEAM』2026年

上の句と下の句がぜんぜん繋がっていない。それがいいと思った。句切れがあるだけでなく、文章的にも句点をつけて〈ここでいったん区切ります〉というポーズがはっきり示されている。句点が一字空けだったら歌の印象はどう変わるだろうか。

幸福でありますようにってみんな祈る 雨のなか秀吉は朝鮮へ(改作)

こうすると「にって」のあたりに歌の重心がきて、全体的におとなしく感じる。定型のリズムに乗った短歌では句切れと文章の終わりが重なることが多いので、あえて読点をつけなくても十分に文章の区切りだとわかるはずである。句読点を多用するタイプの歌集ではないので、読点は特殊な技法として、その意図を読みたくなる。文章の終わりというだけでなく、句点の前後をはっきりと分けようとする意識を感じ取ってしまう。

一字空けの場合、「雨のなか秀吉は朝鮮へ」を言いさしととって、もう一度上の句に戻って一つの文章として読めるだろう。その場合、「祈る」のは誰か。秀吉が祈るとは思えないので、「みんな(が)祈る」と読むのが自然だろう。秀吉に対して「幸福でありますように」とみんなで祈る、という読むと、下の句はどこか寂しい。秀吉がただ一人で朝鮮半島に向けて舟に乗って向かっているような、天下人のイメージと逆転する寂しげな光景を想像した。十六世紀の文禄・慶長の役のときに秀吉は日本にいたはずで朝鮮半島には行っていないので、歴史のifの話である。「雨のなか」という細かい状況把握がみょうにリアルで、現代に秀吉が復活したように感じられる。

いま秀吉がよみがえったら何をするか、それはやはり朝鮮半島の侵略だろう。一字空けでは、「みんな」が秀吉にとっての「幸福」を祈ることになる。侵略の肯定と読まれかねない。それは作者にとって絶対に避けたい読み筋ではないか。

幸福でありますようにってみんな祈る。雨のなか秀吉は朝鮮へ(原作)

句点をつけても、秀吉は雨の中に立つ。しかし句点によって上の句の〈祈り〉から断絶されている。下の句の秀吉は〈祈り〉の対象から外されている。普遍的な平和への祈り、幸福への祈りにとって、秀吉はもはや誰からも理解されない悲しい存在となる。軽やかな口語の歌におかれた秀吉は、天下人から個人へと引き下ろされる。よみがえらせた秀吉を使って、権力の転倒を図る。口語の歌特有の磁場がよく活かされているように思う。

だとして、秀吉を持ち出す必然性をどう説明できるだろうか。「雨のなか秀吉は朝鮮へ」の衝撃は、現代の侵略を批判する手法としての新鮮だった。もし秀吉が復活したら、TikTokやYouTubeで案外かんたんに支持を集めてしまうかもしれない。あとひとつ、「幸福でありますようにってみんな祈る」に、通俗な価値観への批判のニュアンスを読むこともできる。秀吉を祈るような人への批判だ。ただわたしは、読点に作者自身の意思を感じ取りたい。ポピュリズムが台頭し、合理よりも感情によって多くの人が動いていく現代を見つめる一首と言えるだろうか。個人が個人であり続けられること、他者の力に利用されないこと、といった普遍的な「幸福」への祈りの希求が歌われていると読んだ。

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