今年に入って2つ目の爪切りを買う 人には人のいなくなりたさ

中澤詩風『遠泳4』

末尾に引いた同連作のなかの歌に「春」と出てくるので、「今年に入って2つ目」だというその爪切りは、けっこう短いスパンで買い足されたものなのかもしれない、という前提で読んだ。これまで考えたことはなかったが、思えば爪切りは、何人で暮らしていてもたいていその家にひとつなのではないだろうか。髪を梳かすブラシとか耳かきとか、身だしなみのためのグッズのうち、これは個人的な実感でしかないけれど、爪切りは家にひとつあるものをめいめい、シェアしている。実家にもひとつだったし、いま3人で暮らす家にもひとつしかない。サンプルが少ないし、他の誰に聞いたこともないけれど、ひとつの家にいくつもあるものではないような気がする。

爪を切ろうと思ったが見当たらない、わりに重さはあるが思えば小さい、どこかにしまったのか放ってどこかにいったのか。見当たらなければ買うしかない。もしも、一人暮らしであれば新しく買ったそれと、見つからずに部屋のどこかにあるそれと、住む人間以上に余計にある爪切り、ということになる。ひとりであればハサミだって一丁でいいが、用途によって分けるなら大きさの違う何丁か、場合によってはあってもいいようにも思う。爪切りがひとつでいい気がするのは、その使い分ける用途、バリエーションがほかにないからかもしれない。いや、己の爪切りへの解像度が低いだけかもしれない。何度も読んで気づいたけれど、「2つ目・・」「・・切り」と「つめ」という音がつづいている。二句目「2つ目の爪」から三句目「切りを買う」へと跨っており、そこにシンプルな音の面白さがある。

「人には人のいなくなりたさ」からは「人にはヒトの乳酸菌」という「新ビオフェルミンS」のCMを想起した。あれはどうやら人間(という種)そのものに適合する乳酸菌、というものの勧めの意らしく、自分が勝手に想像していたような、人それぞれに合う乳酸菌が違う、という意味ではないらしい。「人には人のいなくなりたさ」には、それぞれにおけるそれぞれのいなくなりたさ、やるせなさ、自棄の気持ち、消えたい気持ちがある、あるんだよ。そういうふうに受け取った。

どこにあるかわからないがきっとこの部屋のどこかにあるもうひとつの爪切りをぼんやりと思う。思いながら、そのもうひとつがいまさら見つかったところで無駄である。いら立つような諦めるような、ささやかなうまくいかなさは厄介で、下の句と緩やかに結びつきながら、けれどどこまでも漸近的に伸びてゆくその結びつききらなさというのか、爪切りを短いスパンで買い足したこと、それとは別にあるはずの、それぞれの人生のやるせなさ、手を取り合うほどぴったりくる情と景ではないが、親和性はたしかにあって、冬に爪切りを手にしたときの冷たさ、重さ、いやに手のひらに収まって馴染む感じ、そのどれもをぼんやりと知っている。

会社の近くに富士そばあったらいいのにな 春のはなかぜはなからのどへ

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