山木礼子『太陽の横』2021年
山木さんの短歌研究の隔月の30首の連載を読んでいたときに、新しい作品を読むたびに膝から崩れ落ちそうになった感覚を今でも覚えている。だから歌集の帯文に「今までの出産・子育ての歌に比べて抜群に新しい」(栗木京子)と書いてあって本当にその通りだと思った。
栗木に「抜群に」と言わせるほどの新しさはどこにあるのか。端的に言えばそれは、山木というただ一人の人間の〈内面〉がありありと見えるからだ。歌集の内容をまとめれば「出産・子育て」といえるけれど、歌集の主題は「私はここにいる」と示すことだと思う。
服が必要で、床に服が落ちているから、それを拾って着る。そうしなければ凍えて死んでしまうかもしれない。裸のままベランダに出て洗濯物を干さなければならない。一人の人間が、心身を消耗する危機的な状況の連続の中で、自分が消えてしまわないように、戦いながら生き延びる。生き続けることが抵抗となる。
しぼみたる胸をしぼれば耐へがたく美談のやうにまだ乳がでる
「出産・子育て」は社会的にも身体的にも女性側に大きな負担を強いる上に、負担を追うことが美談に仕立て上げられ、一人の人間の存在は美談の影に隠されてしまう。自分を見えなくさせる二重の圧力と戦わなければならない。加えて、短歌は断片的な内容しか伝えられない。「出産・子育て」に触れた途端に〈私〉は母の役割を想像させる。主体の性別や役割といったデモグラフィックな人間像や社会的な規範が〈私〉にまとわりつく。
『太陽の横』は歌われないものがはっきりしていて、パートナーや子供のパーソナルな描写や説明が一切ない。「出産・子育て」の主な要素である家族の描写をせずに自己を歌い続ける。そうして、「出産・子育て」が期待する美談に隠される自分の内面に読者の意識を向けさせる。
おやおや わたしのやうな人間に両手を伸べてすがるといふの
泣きやまぬ子を抱いたまま階段の段を転がりおちてやらうか
「ユリイカ」二〇二三年五月号「〈フィメールラップ〉の現在」を思い出す。あっこゴリラのコラムで「フィメール」をつけるかどうかの葛藤が語られていた。ヒップホップの世界では、マッチョな男性中心の世界で戦うか、女性であることをレペゼンするか選ぶときに葛藤があるという。さながら戦後の「女人短歌会」の五島美代子のエピソード(アララギの男性中心ヒエラルキーの中で戦う五島にとって「女人」をつけた短歌会を選ぶのに躊躇があった)を思わせる内容であった。
二〇二〇年、一度目の緊急事態宣言の下で集まった女性ラッパー(valknee、田島ハルコ、なみちえ、ASOBOiSM、Marukido、あっこゴリラ)が「Zoomgals」名義で発表した作品「生きてるだけで状態異常」は衝撃であった。「くそだりい低気圧 月経不順 吸って吐いて惰性でヤられてる」のような率直な吐露に、山木の歌を読んだ時と同じように、膝から崩れ落ちる思いをした。
動画を見るとわかるが、ラップでは当たり前の「私はここにいる」を示すために2000年代のギャル文化がファッションや演出に使われている。やや古風な意匠が選ばれているのは「生きてるだけで状態異常」というメッセージが、新しいものではなく昔からあるものだと暗に示しているのだろう。ギャル文化へのリスペクトというだけでなく、アイデンティティーに歴史があること、歴史を重んじる男性中心社会に向かって正当性を提示する狙いもあると思う。
地下鉄でレーズンパンを食べてゐる茶髪の母だついてきなさい
「茶髪」の意識は90年代の香りがする。現在では母が「茶髪」でも特に新しい感じはしないが、かつてはそうではなかった。時代が変わっても、過去の規範から外れるような意識があるのだろう。
