齋藤芳生『牡丹と刺繍』(現代短歌社)
ロシアによるウクライナ侵攻から明日で4年になる。絵本『てぶくろ』の背にはタイトルと同じ大きさ、同じゴシック体で「ウクライナ民話」とあり、子どもの頃にはどこの国の話だろうと考えもしなかったけれど、同じようにまだ広く外国としか認識できない五歳の子どもにおりおり読み聞かせている。読み味というか、読み始めればこの世界に容易に入ってゆける感覚はいまも昔も変わらず、おじいさんが落としたいかにも丈夫であたたかそうな手ぶくろを、まずはねずみが見つけて迷わず入る。現実には、ねずみ一匹入ればそれでいっぱいであろうところ、かえる、うさぎとどんどん入る。「ぴょんぴょんがえるよ」「はやあしうさぎさ」「おしゃれぎつねよ」などとみな名乗りながら入ってくる。
ありえないことも、その絵本の世界にあって私たちが違和感なく入ってゆけるならそれで成立している、子どもだけでなく、読み聞かせる大人も同じようにその世界へ自然と入っていく、とある絵本作家の方が話していて、たしかに読みながら、読んでいるさなかに(きつねはさすがに入れないだろう)などと冷静に思わず読み進めている。ただ、くまがやってきたところで絵本のなかの動物たちと同じように、いやいやさすがに入れませんよ、と丁重に断りたくなる。けれど結局くまも入る。入ればちゃんとみな納まっている。いつの間にか手ぶくろの側面に小窓までついている。木の枝で作られた土台もある。なるほど立派な家になっている。
どこから集まってきたのか、動物たちには家がないのか、なんせ寒い雪の日である。「入れて」と言われれば断れない。そもそも、手ぶくろも落ちていたものであってほんとうには落とし主がいる。落とし主の片方の手はいまかじかんでいるかもしれない。そうして手ぶくろを落とした「にんげん」が戻ってくるや、動物たちは散り散りになる。くまがそこへ入れるのだから、人間だって、入れたかもしれない。けれど、「にんげんは入ろうと」しない。「にんげん」は現実そのもので、またつき従う子犬もほかの動物たちとは違う、まったき現実の位相のそれは犬である。「入/ろうとせず」、「砲/声に慄く」どちらも同じリズムの句跨り、そこで一瞬読み下すのに躓いて、いっとき立ち止まる。立ち止まりながら、すこしまた強張るような、歌のなかの「砲声」に同じ目線で息をつめている。
「空爆」の「爆」を正しく書いた子を大いにほめて、ほめてそれきり
