寂しいな 人に会っても寂しいし人にキュウリをもらっても寂しい

『にず』田宮智美(現代短歌社)

寂しさを表明することはけっこう勇気が要ると思う。寂しい、と堂々人には言いづらい。言いづらいと思うのは、もし自分が誰かに「寂しい」と言われたら、状況にもよるが少なくともスルーはできず、できるだけその場で話を聞くとか、LINEであればすぐに返事をしてとにかく「それ」を向けられた手前、なんとかしないといけない気がするからだろう。

ただ、寂しさをまったく他の言葉やニュアンスで包むようなこともなく、むき出しのままで差し出されることは案外ない。逃れられない他者の字義どおりのまっすぐな「寂しさ」を受け取るような機会があったのは20代までだったように思う。もはやつぶやきとして機能しなくなったXにも、誰かの「寂しい」を見ることはほとんどないし、もっとひりひりするような、「寂しさ」の応酬だって過去にはあるにはあったはず、面倒で困って、結局はどうにもできない一個の孤独を、むき出しの「寂しさ」を誰かから投げられることはいまはなくなった。

だからといって、大人になれば寂しさが消えてなくなるわけではない。ほんとうにはずっと寂しい、みんな寂しい。麻痺しているか無視しているか、わたしたちは忙しさにかこつけてそのむき出しの言葉を使わない。あるいは寂しくとも、もっとそれを別の言葉や態度で示す術をおぼえて、投げかける相手を間違えずに、だから表面上生活はだいたい凪いでいる。

初句で置かれた「寂しいな」は、だからむき出しの、ひらかれた寂しさの表明であり、ちょっと怯む。怯んで、けれど読み手として受け取る分にはほどよく距離がある。提示されたこの寂しさは、誰かと会うことでも解消されず、まして「人にキュウリをもらっても寂しい」という。いやいや、と思う。会った人から急にキュウリを手渡されたら、それはほんのり愉快ではないか。なぜ、どこから、と思いつつ、受け取るキュウリの細さ、みどり、いぼいぼのとげ。渡されるそれはスーパーにあるような袋入り3本のものではなく、まして気の利いた土産などと一緒に紙袋に入った太く立派なものでもなく、むき出しのありふれた細さの一本であってほしい。渡し/渡されるのにちょうどいい、バトンのような形。帰り際に出し抜けに「はい」と渡されたら、そのまましばらく握って、ぶんぶん振って元気に歩きたい。なんなんだよ、カッパじゃあるまいし、と思いながら、ひとりの部屋に着いて、電気をつけて、玄関の小さな棚にしばらく飾っておきたい。気が済んだら、浅漬けにでもしてぼりぼり食べたい。

そういうふいうちの出来事につかの間元気が湧くとして、でもほんとうには寂しいと思う、生きているうち消えるものではないのだから、と初句のつぶやきにやがては戻っていく。人に会う、するとたまに「キュウリ」は起こる。それでも「寂しい」と思う。目を背けたくなる他人の(そして己の)「寂しさ」は、けれどまわりながら、ずっとある。見えないまま、ほんとうには誰にも息づいている。

「穴めっちゃ空くけどビンゴは揃わない人ってイメージ」と言われておりぬ

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