谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社, 2021年)
狭義には、字余り・字足らずのように五・七・五・七・七の定型から外れる歌を「破調」と呼ぶ。全体の音数が三十一音であっても句割れ・句跨りで定型のリズムで読めない場合も破調と呼ばれる。また、字余り・字足らずの破調であってもリズムが崩れなければ、破調と感じない場合もある。この辺りは歌人によって感覚が異なる。
句の単位がはっきりと抑えられていれば、必要に応じて破調になっても、それは定型の歌を作っているといえるのであって、でたらめの破調や自由律とは根本的に違うのである。
/佐藤佐太郎「短歌の声調」『短歌指導』
例えば、佐太郎は見た目よりもリズムを重視する考え方だ。「でたらめの破調」とはおそらく歌になっていないもの、リズムにうまく乗れていない歌を指している。
髙良真実が「鯉派」Vol.2で「破調」の例に挙げた歌を見ておく。
風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。
/谷川由里子
一見して、字余り・字足らずがあるのがわかる。見た目は破調だ。ではリズムはどうだろうか。私なりの句分けを「/」で示してみる。「―」は音ではないが、吐く息が続くような感覚で音数を補っている。
風に――/ついてこいって/言う。ちゃんと/
5 7 5
ついてきた風にも、/もう一度言う。
9 7
三句は句割れで読んだ。句が割れる直前の語「言う。」がぎゅっと圧縮されて強く感じられる。句点の記号的な意味をとって「言う。」で一呼吸あけて読もうとするが、目では次の語を見て音数を意識しているので「言う。ちゃんと」を定型のリズムで読めるために呼吸は切れない。一瞬切ろうと意識が動くのでつんのめるように力が入って「言う。」の語気はわずかに強くなる。「言う。」のあとに息を吸い直すことなく、リズムに乗れるように足早に次の句へ進む。次の四句の「ついてきた風にも、」は九音の字余りだが、「、」によってさらにわずかに伸びる感覚がある。三句と比べると四句はテンポが遅くなり、歌のリズムにゆらぎが生じる。
リズムは揺らぐのだが、二・四句頭の「ついて」のリフレインと三・四句末の一音のオ母音の繰り返し(ちゃん「と」 → 風に「も」)が次の展開を期待させるため、歌は崩れない。むしろ、揺らぎながら結句の七音で定型に戻る展開にはカタルシスを覚える。
定型に戻るからこそ結句の「もう一度言う。」は重たく響く。もう一度言わなければ、「風」はどこかへ消えてしまう。あるいは、もう一度言ったとしてもずっと引き止めることはできないかもしれない。初句の「風」は未分化の風であり、主体の呼びかけに応じて風の中から眷属としての個体の「風」が現れる。個体となった「ついてきた風」もいつかは元の「風」に戻ってしまう。この宿命を何度も経験して知っているから、主体は「もう一度」言うのだ。
ここまでは定型の句の単位を意識して読んでみたが、句読点で切って散文的に読んでも良い。ただ、そうすると「もう一度言う」の切迫感が薄くなる。落ち着きすぎる。定型を前提にした韻律・息遣いを読んだ方がこの歌はよく味わえると思う。
門坂崚は野村日魚子の歌から「死者との交感」を読もうとして「今ここではないどこか」を目指して定型を逸脱する、という定型観を示したが、これをそのまま谷川の歌に当てはめるのはむずかしい。谷川の歌は、むしろ失われゆく「今」を〈現在〉に繋ぎ止めようとする歌だからだ。門坂の定型観から破調を語るのは難しい。
破調は正調(=定型)と対になる抽象概念である。定型の歌が無数にあるように、破調の歌も枚挙にいとまがない。破調を取り出して一般化し、どの破調の歌にも当てはめられるひとつの論として語ることができるとは、私は思わない。
もう一首、破調の歌を引く。
大鉢を引き摺りにつつ薔薇の繁りを連れて敷き瓦のところに来たり
/森岡貞香『百乳文』
この歌を読んだ小池光の定型観・破調観がおもしろいので、少し長く引用する。
定型のリズムは定型を遵守することによってではなく、逆に定型を崩すことによって最も顕在化する。〈略〉(嶋注:句が欠落する葛原妙子と比較して)ここには過剰に渦巻く文体がある。「大鉢を/引き摺りにつつ/薔薇の繁りを/連れて敷き瓦の/ところに来たり」と読めばこれは五、七、七、九、七という大幅な逸脱である。句の切れ目さえ定かではない。しかし、逸脱によって定型はかえって強固なフォルムの様相を明らかにし、不思議に揺れるリズムはさながらスローモーションの映像を見せるごとく、その日常の動作をあでやかになまめかしいものにする。
(評論アンソロジー『現代にとって短歌とは何か』「短歌の輪郭」p.231、岩波書店、1998年)
艶かしいというよりも、どこか妖しさを感じる歌である。森岡の歌は、場面としては「敷き瓦のところに来たり」と、ただ道を歩いているだけだ。それにもかかわらず、「大鉢を引き摺りにつつ薔薇の繁りを連れて」という客観的な自己の把握によって、動作は過剰に重く、物々しいものになる。
小池の破調観を継承するなら、破調の歌は定型を前提に歌を読む読者に対して、定型との差を強く意識させる効果がある。定型の歌であれば、あえて定型を強く意識して読む必要はない。ただ「うたう」行為に身を委ねればよい。しかし破調の歌では、「うたう」と並行して意識のバックグラウンドで定型を参照し続ける必要がある。
谷川の歌は小池の破調観と相性が良い。破調の歌が読者に定型を意識させるとき、読者は「うたう」行為と並行して定型のリズムの組み合わせを探ろうとする。五音七音のまとまりを意識して読むと、もうひとつのリズムが読める。少し触れておく。
ついてきた風/にも、もう一度/言う。
四句7 結句7 2
結句からはみ出した「言う。」は語気が強く感じられる。「もう一度言う」という歌の内容とよくあう。定型があるからこそ、定型からわずかにはみ出した言葉が強く感じられる。ただ、この読み方は無理があるかもしれない。
では、破調の効果が「定型として読む意識を起こすもの」であるとき、野村日魚子の歌はどうであったか。
百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た
/野村日魚子
野村の歌を読むと、「逸脱によって定型はかえって強固なフォルムの様相を明らかにする」という小池の言葉は当てはまらない。野村の歌には定型〈うた〉の影が見える。「すべてがこわれ」の七音のリズムが挟まると〈うた〉がまだ続いていくかのような感覚になる。これは佐太郎の「句の単位がはっきりと抑えられていれば、必要に応じて破調になっても、それは定型の歌を作っている」に通じる感覚だ。「わたしたちはそれを見た」を「わたしたちは/それを見た」の五音・五音で読むのはやや無理があるので「はっきり」ではないけれど結句は文字どおり歌の終わりだから破調感は薄い。野村の歌を読んでいると定型のリズムへと戻ろうとする疼きが鎮められる感じがする。意識のバックグラウンドで動くはずの定型を参照するタスクが解除される。破調のフォルムをしているが破調の効果がないのだ。
(次回は自由律短歌について考えてみます)
