駒田晶子『光のひび』(書肆侃侃房)
戯れにのぞき見る人の願望というのがあって、それが神社の絵馬である。見られることも一応は承知のうえで、結びつけられひしめくように掛かっている。見られることも承知、というより知らぬ誰かに見られる云々はさし措いて、とにかく叶えたい望みがある。そういうそれぞれの本気がぶら下がっている。
いっぽう、のぞき見できる他人の願望、といえば七夕飾りもそのひとつで、どちらかというとちょっとした商業施設やらスーパーやら保育園やら、日常のなかで「おや」と出会すのは七夕の短冊のほうが多い。手持ち無沙汰にふっと近寄って後ろ手に眺めたりする。書くほうも勇んでそこへやってきて短冊に願いをしたためたわけではおそらくなく、だからそこに書かれた願いごとの多くは気張っていない。「◯◯とずっと一緒にいられますように」「家内安全」「健康第一」というような現状維持を望むもの、あるいは「100万円ほしい」とか「任天堂Switch2が当たりますように」みたいな棚からぼたもち系というのか、まあ一丁願っておくか、みたいなノリのものも多い。つまり七夕の短冊というのは読む方も書く方も気負いは少ない。
それで翻って神社の絵馬はどうかというと、きっと何がしかの具体的な願いをしっかり叶えるために、その人はその日、そこへやって来る。その神社が学業成就の神を祀っているのであれば、むろん絵馬には「志望校合格」「第一志望現役合格」など試験にパスすることを願う太い文字が並ぶ。神社に並ぶ絵馬の願いはいつも具体的かつ本気である。主体の見た他人の絵馬の願いというのは、きっとその本気の願いのいくつかで、人生にまつわる見知らぬ人の望みが書かれていた。願いではなく「祈り」であることから、叶うかどうかわからないような、けれど縋るようにして託された思いがあったのだろう。
けれど、「人の祈りは忘れやすくて」。そこに並んだ「祈り」のひとつが思わず「涙腺を刺激する」ものであったとしても、所詮は第三者の祈りとして、そこを立ち去ればそれで記憶からは自然とはなれていく。「忘れやすくて」には、うっすら寂しく、先につづく言葉を待つような、言いさしの余韻がただよっている。
思うに、絵馬の願望というのは本気だからこそ、むしろ均されているのかもしれない。人生にまつわる本気の願いや祈りというのは、本気であればあるほど、似通ってくる。結果束ねられて行き着くのは「生きていたい/生きていてほしい」になるのではないか。そのように人間の本気の「祈り」は均されているゆえに、どうしても忘れやすい。そうであれば案外と、七夕飾りに残された願いのうちには個人的かつ切実なものもあったりして、そこにはちぐはぐでまだら模様の願望がぶら下がっている。通り過ぎたあとにも覚えているものがあって、知らぬ人の知らぬ望みの奥行きを感じたりする。けれど、それだっていつかはやっぱり忘れてしまうのだろう。所詮、という言い方はぶっきらぼうに響くけれど、忘れた余韻を引きずったまま、誰の祈りも空気のように、つめたい一月のただなかに溶けている。
極彩色の一本つかむ願い事は(鈴の音)いつも(鈴の音)ひとつ
