野村日魚子『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』(ナナロク社, 2022年)
この歌は短歌である。しかし歌であることを説明するのはとても難しい。
「鯉派」Vol.1(2024年)の門坂崚の評論「『私性』試論」では、野村の短歌がなぜ定型を逸脱せざるをえなかったのかを考えるために、そもそも「うたう」とは何かという根源的な問いに立ち戻って歌の読解を試みている。
門坂は短歌の「うたう」を、五七五七七の定型によって「積極的に『私』を『今』に生起させようとする」行為だと捉える。五音・七音の反復構造は概念的な「身体」を作り出し、読者と作中主体はその身体を共有する。難解ではあるが、「身体」を置くことで、歌の中の世界を認識する感覚器をもつ主体の存在が見えやすくなる。読者は「うたう」行為によって歌の韻律を体験する際に、韻律の向こうにある主体の身体の存在を感じ取る。読者が他者と同じ感覚器を一時的に共有する、と考えれば理解しやすい。
そのうえで門坂は、野村の歌が「百年後」という未知の時間へ向かうために、定型による「今」の生起を拒んだのではないか、と推測する。そこからさらに「他者性の高い世界に行く」と言い換えるが、ここでの「他者」は読者から見た他人の人生という意味ではないだろう。定型のリズムによって共有される主体の身体では到達できない、時間的に遠い領域の比喩として用いられている。「他者」とは、空間的な外部ではなく、時間的な隔たりの比喩である。
(門坂の定型観や「今性」は、玉城徹のいう近代短歌の「内在的時間統一」(現在を基点にして過去を回想する構造)に近づいているようにも見える)。
髙良真実は「鯉派」Vol.2(2025年)の前号評で門坂の論を読んで「次世代の歌論の基礎文献となる可能性」があるという。髙良は、門坂が用いた「他者性」という語から「性」を切り離し、読者から見た作者や作中主体を「他者」と読み替える。そして、野村の短歌に特徴的な定型を取り込んだ逸脱は、定型の効果によって読者と主体を一度同期させ、破調によって「第三者の存在をほのめかす」のだ、と説明する。
髙良は、門坂の論を、野村の歌にとどまらず一般化できる破調の論として、他の作者の破調の歌にまで広く応用できると考えているのではないか。
髙良は結論を急ぎすぎている。
門坂は論の中で野村の歌を「破調」とは呼んでいない。むしろその語を避け、慎重に「定型の逸脱」と言い換えているように見える。破調という便利な語を当てはめた瞬間に、なぜその長さが必要だったのか、という問いは見えにくくなってしまう。
門坂の素朴な疑問に戻ろう。なぜ野村の歌は、定型を大きく逸脱しているにもかかわらず、短歌として驚くほどスムーズに読めてしまうのか。
あらためて歌を読む。
百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た
/野村日魚子
この歌から受け取る喪失感は、一度感じ取った現実の気配が、結句に至ってすべて過去になり、そこから先の時間が失われてしまったような感覚から生じている。見えていたものが「すべてこわれ」たという不可逆な破壊の悲しみと、時間の流れそのものが途切れる感覚。この二重の喪失が示しているのは、「わたしたち」の関係の破滅だろうか。それが時間の果てのイメージとして現れている。
この歌には、二つの時間の観測点がある。
- 初句の「百年後」は、「百年後(に)嵐のように恋がしたいとあなたは言い……」と、過去の「あなた」の発話を思い返す視点に立っている。この「今a」から見れば、それはついさっきかもしれないし、昨日の出来事かもしれない。
- しかし、歌を読み終えたとき、そう遠くない過去だったはずの発話は、「実際嵐になった」あとの「今b」から見て、百年前の出来事へと反転する。はるかに遠い過去へと押し流される。
「すべてがこわれわたしたちはそれを見た」嵐が過ぎ去ったあとの世界を「見た」あとに位置するこの「今b」が、歌の外部にある作者の時間系にある〈現在〉である。「今」と〈現在〉は区別できるが、この歌の〈現在〉において、作者と主体の時間は一致している。
〈現在〉とは、「うたう」瞬間そのものだ。読者と作者が歌のリズムを介して共有できるのは、このただ一つの〈現在〉という時間の基点である。一首の中でどれほど「今」の時間が移動しても、「うたう」瞬間に生起する〈現在〉は変わらない。そして歌を読むたびに読者はただ一つの〈現在〉に戻ってくる。
歌の音を分解してリズムを見てみる。
百年後 嵐のように/恋がしたいと/あなたは言い
5 7 7 5(6)
実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た
11(8+3) 18(7+6+5)
前半の「今a」にあたる部分には、五音七音の心地よさがある。助詞の省略もあり、韻律を意識した痕跡がわかる。定型でいえば四句分に匹敵する音数で、ここまで来ると、歌であるという感覚が確かに立ち上がる。読者は無意識のうちに、歌であることを期待して読み進めてしまう。「実際嵐に」の8音、「すべてがこわれ」の7音が定型感の期待を維持する。期待を持ち続けたまま、後半の散文的な言葉も短歌として読もうとしてしまう。
息を止めたまま水に潜っているように、本来は苦しいはずなのに、冷静に読んでしまう。読みは止まらない。破滅を前にしても冷静でなくてはならない。その感覚こそが、読者に共有される主体の感覚であり、この歌における「私性」のきざはしの一つなのではないかと思う。作者の顔が見えるという意味ではない。ただ一人の人間が確かにいると感じられる、野村固有の歌の息遣いである。
(長くなってきたのでここまで。次回は破調とは何か?から考えてみます)
