秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人)

ひとりの人間の開かれた両手のひらに、太くみずみずしい茄子が乗せられている、という情景を迷わずイメージして久しい。が、「両手に乗せて」について片手に茄子をひとつずつ乗せている、という解釈もあることを後に知り驚いた。「光らせる」とあるからには、形のいい茄子ひとつを選んで光を浴びせるために両手のひらに乗せてみる、そこにこそ恭しさが宿るようだ、と思う。けれど茄子を「光らせる」という行為は我に返ればなんとも不思議で、茄子はたぶん、光らせなくたっていい。だって茄子はもとより発光している。

はりと艶のある茄子の黒々した輝きのことをよく思って、そもそも茄子とはいかにも独特のモチーフである。「一富士二鷹三茄子」と言われるように、初夢に見るとよいとされる縁起物であるうえお盆の精霊馬にも用いられる。古くから暮らしや伝統とともにあることを措いても、茄子には何かしらの力というのか、具体的に言うと「描きたくなるエネルギー」のようなものが宿っているように思う。私のほとんど生涯一と言うべき偏愛の作品に『茄子の輝き』(滝口悠生)と、「奥村さんのお茄子」(高野文子)があり、前者は小説、後者は漫画であるが、どちらも作品内において茄子は独特な存在感を放っている。茄子にはやはり、何かある。

この一首の茄子も、じっさいに両手に乗せているかどうかはほんとうには重要ではなく、何より茄子は手に乗せずとも光っている。「光らせる」ではなく、「光らせて」の「て」をともなって下の句へと切れ目なく繋がりながら、この物思いはあまりに普遍的だ。階段をとっとっと下るような軽やかさで「乗せて」「光らせて」、から「どうして死ぬんだろう僕たちは」と思う。上の句の明るさは断絶されることなく、ただ不思議がるように、死への物思いに重さは感じられない。けれど、その普遍的な疑問がいま生きている誰のもとからも(無意識にせよ)離れることは決してない。その摂理を知ったが最後、ほんとうに死ぬときまで、その疑問は生きる自分と在りつづける。

たとえば突拍子もないけれど、クレジットカード、ボーナス、貧血、ラブホテル、自分の生まれる前から存在する「仕組み」の意味を追って知ったとき、知らない自分には戻れない。そのような仕組みや、摂理のうち際たる理不尽が「いつか死ぬこと」であり、その端的な事実を知らなかった頃のわたしは果てしなく遠い。けれどお酒を飲んで束の間気持ちよくなったり、あるいは眠る間際のまどろみのなかで全部がまぜこぜになってなだれ込み、不思議な溝に落ちることがある。すべて、理不尽さやそれを超えてただ不思議と思う仕組みや摂理の色々が、わたしが生まれたときからすでにそうである、生まれる前からそうである、生まれたものはいつか死ぬ、始まりから張りついている「それ」を受け入れてみな生きるのだと気づいてしまった過去を何度も思い出す。一首はそういう不思議さと、いやに落ち着いた自分の心とあまりにフィットして、ずっと胸にある。凪いだ気持ちで、(どうして)と繰り返し思いつづける。

生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらに乗せ手を温める

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です