半夏生しらじら昏れて降る梅雨に母は病みこもる父と老いつつ

近藤芳美『近藤芳美集 第三巻』所収『アカンサス月光』(昭和51年)

掲出歌は、何年か前の私自身の経験と重ねて読むことができるのだが、父母の長寿を喜び、その老いを懼れるという「論語」の言葉は、東洋の文化の根底にある道徳律を一言で言い表していると思う。短歌を根底のところで支えているのは、生老病死の普遍性である。そうして家族や、肉親というものの存在の重たさにたえながら、誰もが生きている。近藤芳美には、次のような歌がある。

 

生きて四囲にあかしてはならぬことありと叫びはつづく吾が夢の(きわ                                     『遠く夏めぐりて』

 

告白してもしかたがないし、告白のしようもない事というのは、われわれの人生に数多くある。それを負いながら人は生きている。「負う」という言葉は、近藤の歌のなかに頻出する言葉だ。しばしば「一世を負う」とも言った。

近頃は昼間がだいぶ暑くなってきた。私は、五月の連休が過ぎた頃から、季節の変わり目の影響なのか、家に帰って夕食をとるとすぐに寝てしまう。朝は四時か五時に一度目が覚めるのだが、目をつぶるとまだ寝られる。と言っても、六時間以上寝ると悪夢を見る事があるので、そう喜んでばかりもいられない。けれども、夢は亡くなった母に会えたりすることもあり、それはありがたい。半夏生という植物の名前には、なぜかこの世とあの世の両方にまたがっているような響きが、私には感じられるのだ。梅雨の近い頃の空気には、死者がひったりと近づいて来る気配が感じられる時がある。そんな時は、花も樹々もすべて依代〈よりしろ〉であり、死者の声を届けるものとなっている。

話はかわるが、作家の車谷長吉が亡くなった。文芸批評家の江藤淳は、かつてこう述べたことがある。家族や、肉親のしがらみの中で、のっぴきならない生の諸相を表現するのが散文文学の一つの役割であり、そのことを渾身の力で成し遂げているから、車谷長吉の仕事は価値があるのだと。露悪的、などというレッテルもあったが、そんなイメージからだけで読まない理由にできるような作家ではない。