管理ニモ監視ニモ慣レヒグラシノ我等完全無欠ノ死体

森本 平『讒謗律』(2015年)

 Ⅰ章「通信傍受法」の一連から引いた。一冊の大半の作品が、漢字とカタカナで表記されている。献辞がある。「菱川善夫に。ジョー・ストラマーに。アル・ジュールゲンセンの突進力に。」だから、この作品集は、菱川善夫のように、ジョー・ストラマーのように、アル・ジュールゲンセンのように語ることを志した歌集と言ってよいのだろう。菱川善夫は、前衛短歌運動の論客。ジョー・ストラマーは、イギリスのロック・グループ、クラッシュのボーカリスト。アル・ジュールゲンセンのことは知らなかったので、検索して調べてみた。ブログの自己紹介の文章をみると、次のように書いている人だ。長くなるが、本書の理解の助けになると思うので引いてみる。全文の文末に感嘆符がついているのだけれども、引用のはじめの方の文章からはそれを外してみた。

「もはや、我々は「法」の下で「管理」されるだけの存在ではありません。いつまでも政府の「立法」の下に這いつくばる存在ではないのです。1955年体制移行、偽りの自由民主主義と高度経済に隠れ、我々​の主張はないがしろにされてきました。その結晶が「六法」であり、ユダヤ教のトーラーも真っ青の「法律​がんじがらめ社会」です。そこまで「立法行政」第一主義を尊重してはなりません。「法」にも限界があります。 引きこもりでも、呟き野郎でも、精神病でも、妖怪でも、なんか得​体の知れんやつでも、何か持って、主張したくてたまらぬ者!歩​く弱者を歓迎します! 変!病気!そんな勝手にレッテル張られ​た者達!だが、そんな妖怪みたいな得体の知れない方。そんなみんなが大好​きです! 私達は拷問奴隷労働者じゃないし、「お任せ」で「愚かな」国民でもありません!! 私は、許容性のある器の大きい人間に会いたい!!!ただ単に生まれたままの「お前とオレ」です!!上下など無い筈!!グローバル化の美名の名の元に「能力主義」「超個人主義」に追い​込まれ、「差別」された人々!強い者に統治される社会など真っ平です!」

どうもデザインや、造本も含めて、歌集の言葉の展示・表出の仕方が、この歌集の言葉と合っていないのではないかと私は思うものだ。この歌集の言葉は、朗読会場などで、演者の肉声と緊張感のある楽器奏者の伴奏のもとにシャウトされてしかるべきものである。または、美術家の協力を得て、昔の萩原恭次郎の詩集のような大胆な造りのなかに構成されて初めて伝わる性質のものではないだろうか。むろん、そんな予算も余裕もないだろうけれども。

問題なのは、これらの言葉がぶつかる位置に立っている(立とうとする)人がどれだけいるかということである。私は日本が自由にものを言える社会だとは思っていない。だから、森本平の孤独と怒りはよくわかる。だから、それはパンク・ロックのシャウトの様式のなかに装わないと表現できない性格のものであることも理解できる。

全体にメッセージの言葉は、軽くて固い。まともにぶつかると、かなり痛いはずなのだが、怒りやいらだちといった情念が、カタカナ表記によって異化されながら提示されているから、読者は感情移入して読むことができない。むしろ表記が読者の感情移入を拒んでいるから、活字だけになると、攻撃的な言葉のひと粒ひと粒が、対象化されて観察対象と化してしまうのである。日本語の短歌の得意とする話法は、巻き込み型の「語り」に読者を共感させようとする「自分語り」であるから、本書を手にした読者のとまどいは、そこにあると言えるだろう。自分の感情をも宙づりにして括弧に入れながら笑い飛ばす、そのような活動的な批判精神を持っていないと、本書をおもしろく読むことは難しいのではないか。