廃村につづく坂道グーグルにおおかた消えしにっぽんの道

源 陽子 「未来」2013年5月号

 在るのに、無い事にされてしまう事というのは、怖ろしい。また、その逆に、無いのに在る事にされてしまう事も、怖ろしい。記憶と、それを記憶として認め直す思考の働きとは、セットになっているのだが、「在るのに無い事にしてしまう」時には、その事実や記憶にまつわる認識の部分が、意図的に働かなくなっていたり、何か理不尽な原因で働かなくされたりしているのである。

掲出歌の作者は、実際にいくつもの廃村を知っているのだろう。そこに行ってみようと思う。すると、グーグルの地図上には、その道がなくなっているのだ。アスファルトの道は、その先の村が廃村になったからといって急になくなるものではない。つまり、在るのに、無い事にされてしまっているのだ。どんな人でも物でもお金でも、そういうことになる場合がある。それは、この世の薄気味悪い仕組みのひとつである。掲出歌は、そういう事に対して、静かに、つよく、はげしく抗議している。

グーグルが象徴するグローバリゼーションは、そうした圧倒的に大きな趨勢であり、時勢の力である。インターネットは、市場の利便性と効率性への要求が貫徹する場所である。しかし、こういう暗喩読みは、歌の読み方としてそんなにおもしろいものではない。実はこの歌の読みどころは、二句めの「坂道」という何気なく置かれた言葉にある。この坂道という豊かな具体的なものの存在が、その道を利用していた人たちの生活を一度にイメージのなかに立ち上がらせるのである。この歌を繰り返し読んでいるうちに、坂道をのぼってゆく廃村の人々の背中が、見えてくるような気がした。ここで私は、そういう物語への欲望をはげしく刺激されるのである。いまのうちに、そういう「にっぽんの道」の話をしておかなければならないということは、あるのではないか。

私の文章は、ここで最初の暗喩読みに戻るのである。源陽子の歌は、もっと読まれていいと私は思う。

 

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