魚村 晋太郎


漏斗(じょうご)のやうな月のひかりの底(そこひ)なる息子の部屋に息子はをらず

河野裕子『体力』(1997年)

月を視ることと、月のひかりを視ることは別だ。
もちろん月を視ているときだって、月のひかりを視ているのに違いはないのだが。
月そのものは、どんなに明るい場所にいてもみることができるが、月のひかりは灯りのない暗いところでしかみることができない。
そして、月が黄味を帯びた色にみえる夜でも、月のひかりは青ざめた色をしている。

漏斗のような月のひかり、という一首の表現は面白い。
漏斗はうえから見ると丸く、真横からみると半月のかたちをしている。
はじめは、金属製の漏斗のような月、を思い浮かべたが、月のひかり、といっているのだから、かたちのことではなく、差し込むさまをの方に重心がおかれた表現なのだろう。

ちいさな窓か、カーテンのすきまから、暗い部屋のなかに月光がさしこんでいる。
ほそく差し込んだ月のひかりが、液体のように家うちをみたしていく感じ。
漏斗は空の容器に液体を注ぎ足すのにつかう。
月のひかりを飾る漏斗という言葉は、無意識のうちに、息子の不在とも響きあうのだろう。
むろん、息子はいなくなったのではなくて、どこか別の場所にいるのである。
この月夜、息子はどこで何をしているのだろう、と母は思う。

にんげんは孤独の器だ。
子は成長とともに、その器のなかに母親さえも容れなくなる。
否、まず母親を締め出すことで、男の子はおとなになるのだ、とも言える。
そんなこと、百も承知でいながら、母親はやはりさびしいのである。
同じ歌集には、家族で過ごした時間をふりかえる、こんな一首もある。

   子供らと共に暮らせし二十年短い鬼ごつこしてゐたやうな