この日ごろ遊歩道には氷とも泥ともつかぬものの落ちをり

佐藤佐太郎(『星宿』:大辻隆弘著『近代短歌の範型』2015年刊所引)

評論を続けて取り上げてきた。気になってさがしていたのだが、やっと大辻隆弘の本が見つかった。どういう本の下敷きになっていたかというと、『語る絵』司修、『休戦』プリモ・レーヴィ、『風雅の帝 光厳』松本徹、『はじめにイメージありき』木村重信(岩波新書)、『新古今時代』風巻景次郎、『光琳と乾山』平木清光、『名人は危うきに遊ぶ』白洲正子、という具合。どれも古書で買ったものだが、何の脈絡もなくただ積み上げてあるだけだから、重ねてある本が一度行方不明になってしまうと、見つけるのに時間がかかるのである。
それで、はじめの掲出歌と並べて、大辻は次の歌も引いている。
何といふこと知らざれど行く道を圧しくるごとし木草の光
そうして、二首の歌について次のように書いていた。
「氷とも泥ともつかぬ反射光。みどりの光の不定形な塊となって佐太郎を襲う木や草。これらの歌に登場するモノの姿は、どこかおぼおぼとした不気味さを帯びている。これらの歌において佐太郎は、自分の白濁する視野に現れてくるモノの姿を見えるがままに写生している。そのことによって、世界の不気味さが唐突な形で歌の表面に突出してくるのである。」
過不足のない文章で、読みながら納得させられる。ここでは、私は二首めの歌の方を分かち書きして読みこんでみることにする。
何といふ こと知らざれど、
行く道を 圧しくるごとし。
木草の光
初句と二句めが句またがりになっていて、二句目で小休止、四句切れである。一、二句は、「何ということ(とは)知らないけれど」というような意味。結句の「木草(きぐさ)の光」という言葉には、詰屈(きっくつ)とした印象があり、カ行音が多い音の響きから、やや苦しげな感じを受ける。そもそも「何といふ こと知らざれど」という句が、すぐには何を指して言っているのか、よくわからない。結句の「光」のことのようでもあるし、また、そういう「光」を「圧しくる」ように感じる自身の感覚のことそのもののようでもある。
徹底して述語的な認識の仕方に就(つ)くのが、佐太郎の短歌の特徴である。名付けられていない、これまで誰もそれを問題にしなかった「圧(お)しくるごと」き「木草の光」を、もしかしたら初めて作者は問題にしているのかもしれない。大辻の「世界の不気味さが唐突な形で歌の表面に突出してくる」という言葉は、読者からみてそうだ、ということだろう。歌を解説する言葉の難しいところだが、「何といふ こと知らざれど」の内容を「世界の不気味さ」という言葉で置き換えたとたんに、その放脱した主体の姿が、いったん見えなくなってしまう。いや、それが「主体」であるかどうかも、元々わからなかったのだった。とは言いながら、第一に大辻の「みどりの光の不定形な塊となって佐太郎を襲う木や草。」という感受のうちに、歌の内容はきちんと把握され、一つの解釈を与えられていたはずだ。
「何といふ こと」の「こと」は、「言」であり、「事」である。つまり名付けられていないものが、直覚された瞬間の言葉である。しかし、それを「世界の不気味さ」と言った瞬間に、ズレが生じてしまう。詩が物化してしまうとでも言ったらいいか。それは繰り返すが論者のせいではなく、解釈の言葉の持つ宿命である。だから、歌を読むとは、解釈からさらにさかのぼって、その最初のおののきに立ち合う事である。「何といふ こと知らざれど」と言って不思議の感を受けるような、妙な存在の手ざわりに、作者とともに没入するところまで行くことである。瞬間を共有する想像力を持つということである。
その意味で詩歌を読むことは、生きることを更新する経験であると言ってもよいだろう。それは、人間が本当の意味で老いと死に立ち向かう時間を保障するものなのである。だから、言葉を介して成就するものについて、書物をなかだちにして語りあえることはよろこばしい。