魚村 晋太郎


垂直の街に来る朝われらみな誰かうまれむまへの日を生く

都築直子『青層圏』(2006年)

今日という日は、誰かの命日であり、誰かの誕生日である。
日本国内では1日におよそ3千人が生まれ、およそ3千人が亡くなる。
世界では、1日におよそ38万人が生まれ、16万人が亡くなっている。

今日、どこかであたらしい命が生まれ、知らない誰かの人生がはじまるのだ。
そう感じるときもあれば、今日、どこかで知らない誰かが人生の幕を引くのだ、としみじみ思うこともある。
そして、今日が誰かの誕生日だ、といっているのではなくて、生まれようとする前の日だ、といっているところに一首の詩的な閃きはある。

生まれる以前の日、とも読めるが、生まれる前日ととったほうがより面白い、と思う。
明日には生まれようと、母親の胎内にみなぎる命。
びっしりと並んだ命の駒のはしににひとつを加えると、反対側のはしからひとつが落ちる。
そんなわけはないのだが、ひとりの生がひとりの死と背中合わせにあるような、そんな怖さもすこし感じる。
誕生日だ、と言わず、その前日だというその一日のへだたりが、未来を生きるものと、現在を生きるものを容赦なくへだてているような印象を受けるのだ。
あした生まれてくる子供たちは、自分たちとはまるで違う社会のしくみと倫理のなかで生き、自分たちがみることのない日本のすがたを視ることだろう。

垂直の街、とは直接には高層ビル街のことだ。
あさのひかりを反して壁面にならぶ無数の窓も、自分と無関係な無数のひとびとの生に思いを向ける一因になっている。
垂直の語は、連作のなかでいくつかの違った文脈をつらぬくキー・ワードにもなっているのだが、地上の存在が抗うことのできない重力をも暗示しているのだろう。
生から死へ向かうベクトル。その矢印が長いのか短いのかは、ひとりひとりの感じ方によるが、そのベクトルもまた重力のように、ひとがけっして抗うことのできないものである。