冬池に眠る白鳥の華やぎに似し白菜を厨に殺(あや)む

富小路禎子『不穏の華』(1996年)

日本に渡来する白鳥は主にオオハクチョウとコハクチョウ。
夏、ユーラシア大陸北方で繁殖したものが、10月中頃、北海道の湖に大群で渡来し、そのあと本州へ南下するものが多い。
おもな渡来地は東北地方や新潟県だが、コハクチョウは滋賀県の琵琶湖や島根県の宍道湖など、西日本でもみられる。
古くは、鵠(くぐひ)といった。

真っ白で優美な白鳥の姿に古来ひとは超自然的なものを感じてきた。
ギリシャ神話では、ゼウスが白鳥に変身してレダに近づき、記紀では客死した倭建命(ヤマトタケルノミコト)の霊魂が白鳥と化したとあって、この伝承にもとづく白鳥神社が各地にある。
臨終の際、妙なる声で歌うという伝説も西洋にはあり、白鳥の歌、の語は辞世とか、芸術家の最後の作品の意味でも用いられる。

そんな白鳥の華やぎの姿を主人公はまな板のうえの白菜にみた。
たしかに、白菜の、葉らしくない白さや、みっしりと結球したさまは不思議な命のかたちであるし、ねむる白鳥のおしりの感じに似ていなくはない。
でも、あまりそんなふうに感じたことのあるひとはすくないだろう。
しかも、殺めるのである。
にぎやかな家族がまわりにいたら、こんなふうには感じない。
主人公のそばには、誰もいない、或いは、誰かいたとしても、ひとりだけのしずかな世界が主人公の胸にひらけている気がする。

諧謔の歌、といえないこともないが、鬼気迫るものがある。
一首にこめられているのは、命の不思議さとあやうさの実感だ。
いきとしいける命の、あるものは白鳥となって眠り、あるものは白菜となり、そしてあるものは老いに向かう真冬の厨で、真っ白な白菜の身に包丁の刃をあてている。
その刃は、ねむる白鳥にも、主人公自身の命にもつめたくふれるのだ。
  忌の集ひにかすかな笑ひおこるとき氷片の浮く水配られぬ
死をみつめた歌の多い同じ歌集の一首。
コップの水のことだろうが、氷片の浮く水、といったところになんともつめたいものが感じられるのだ。

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