佐藤 弓生


モノクロームの午後はノートの罫線をなぞり続ける左手がいる

杉谷麻衣『青を泳ぐ。』

(2016年、書肆侃侃房)

 

〈いる〉は居る? 要る?

前者でしょうが、この文脈だとふつうは「ある」ですよね。

この一首だけでは学校風景とは確定できないものの、無為をもてあましているようすから、すくなくとも就業中とか執筆中といった感じは伝わってきません。授業中、もしくは自習中でしょうか。

通常、動詞「いる」は生命体に、「ある」は物体や現象に使います。左手は単体では生命体とはいえません。しかしここではその動きを、自分とはべつの生きもののように眺めるまなざしがあるため〈いる〉となっています。

こうした小さな分裂感覚は、とくに若いころ、わりと誰でも体験していそうです。

 

イーゼルには描きはじめの夏がいる空はまだ無地テレピンの香が

 

いる、と書くとなんとなくアニミズム的というか、左手も夏も、ノートやイーゼルの上で息をしているように見えてきます。「要る」の意味も、やはり若干ふくむのかもしれません。どんな風景も無意味ではない、自分の時間にとって大切なひとこまなのだというような。

 

聴覚を放し飼いするひるやすみ文学少女を装いながら

 

視覚は本に限定できても、聴覚は遮断できず、クラスメイトたちの声が気になっている。他人を求める気持ちと、遠ざけたい気持ち。気持ちが分裂するとき、人ならぬ物象の息づかいが感知されるのかも。

〈モノクロームの午後〉は、どんな午後でしょうか。色が消え、自分の手と想念だけが微熱を帯びて明るんでいる、そんなひとときでしょうか。