ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう

小池光『廃駅』(1982年)

ガス室、とはアウシュビッツ強制収容所のガス室のことを指している。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツは占領下のポーランドに、強制収容所をつくり、ユダヤ人を大量殺戮した。
その数については議論もあるようだが、600万人にのぼるともいわれている。
フランクルの『夜と霧』には「選別」の光景がまざまざと描かれているが、到着したユダヤ人は労働力や人体実験の検体としての価値の有無を判断され、価値無しと判断された大半の被収容者は即刻ガス室へ送られ殺された。

ファシズムの時代。
大量殺戮に関わった看守たちのなかには、なんのためらいもなく職務を遂行したものもいれば、良心の呵責に苦しみながら自身の身の安全のために職務にしたがっていたものもいただろう。
いずれの場合でも、多くの看守たちには家族がいたはずだ。
或いは、家庭では「良き父」であったひとがめずらしくなかったかも知れない。
主人公は、ふとそんなことを思った。

休日になれば、子供をつれて公園に散歩にでかけることもあるだろう。
そんな「人間的」な側面があったから、看守たちの、或いは、ナチスの行為が、若干でも許されるというわけではない。
わが子の手をひき、公園に連れていった翌日に、また大量殺戮を遂行する。
そんなことをなしうるのが「人間」なのだ、という怖さがたんたんとした一首にはある。

  充満を待つたゆたひにインフルエンザのわが子をすこし思つたであらう
「生存について」という同じ連作の一首。
充満というのは、いうまでもなくガス室の毒ガスの充満である。
流感のわが子を気遣うとき看守は、いま自分たちが殺そうとしている多くの人人のことをどんなふうに思ったのだろう。或いは、思うことがなかったのか。
一首は、そして連作は、人間性とはどんなものか、という重たい問いでもある。

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