佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』(2006年)
今日、12月14日は元禄15年(1702年)に赤穂浪士の吉良邸討ち入りのあった日。
じっさいの討ち入りは翌日の未明だったが、江戸時代の慣習では明け六の鐘をもって1日の区切りとしたので、14日が討ち入りの日とされ、その前後には赤穂浪士を題材にしたドラマや映画が放送されてきた。
戯曲化され、さまざまに脚色されて、義士として日本人に愛されてきた四十七士。
でも、考えてみれば、報復のテロリズムである。
テロリズムが美化されることもあれば、大義名分のある軍事行動の「大義」が、時の流れとともにあやしくなってくることもある。
一首は2005年の作。みんな、なんて友だちのことのように詠っているが、一首の背景には、2003年にアメリカの主導ではじまり、戦闘終結宣言が出されたあとも戦闘やテロがつづいたイラク戦争のことがあったはずだ。
極月(ごくげつ)は12月の異称。
そばえ、は天気雨のことで、冬のものにも夏のものにも使う。
日照雨、とか、日向雨の漢字をあてることもあるが、戯(そば)える、という動詞からきている。
晴れながら降る時雨や驟雨を、青空のいたずらみたいだと、昔のひとはとらえたのだろう。
12月の晴れた空に、時雨がきらきら光って降る。
いま世界に頻発するテロのいくつかは、いつか美しい物語として語り継がれることがあるのだろうか。
きらきら、という擬態語に導かれた言葉遊びであるが、一首の結句が、憎まれ役の吉良上野介であるのも面白い。
不謹慎なほどに軽やかで、そして、いろいろなことを考えさせてくれる一首だ。