母たちは乳母車より手を放すセガンティーニの絵に見入るとき

小林幹也『探花』(2009年)

ジョヴァンニ・セガンティーニ。彼の描いたシンプルでうっすら青い山の絵を見たことがある。
まっさかさまに落ちていくような寂しさを感じて、惹きこまれた。

「母たち」は懸命に子を育てる。しかしときにそれは、身体だけでなく精神にも過酷なものである。だからこそ、「母たち」は人間として、いやひとりの女として、立っていたくなるときがある。それをだれも責めることはできないとおもう。
「乳母車より手を放す」ということは、つまりそういう瞬間だろう。
母が独りの女になって佇む姿が、あざやかに描かれている。

この歌はまず、「セガンティーニの絵」がいい。あの思索を起こさせるような絵は、忙しい「母たち」にしばしの静かな時間をあたえてくれるものとしてぴったり。

それから「乳母車」。
いまは、ベビィカーやバギーやストローラなどと呼ばれる、「母たち」の強いみかた。
けれど、ほとんど「乳母車」とは言わない。
そこであえて「乳母車」と呼ぶことによって、この歌のシーンが現実からすこし離れたものになる。
「乳母車より手を放」し、佇んでいる「母たち」が、またひとつの絵であるかのあるような錯覚を起こすのだ。

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