大辻隆弘『デプス』(2002年)
雪は和歌の時代から美の象徴のひとつだったが、さらに古くから、豊年の瑞兆とか五穀の精とか呼ばれ、地方によっては農耕とふかく結びつくものと捉えられてきた。
初雪、雪の声、雪月夜、深雪晴れ、など手許の歳時記には雪に関する季語が60以上ならんでいる。
なかでも好きなもののひとつに、雪催(ゆきもよ)い、という季語がある。
いまにも雪が降りそうな空模様のことだ。
季語は使われていないが、一首にも雪催いの空が詠われている。
寒寒とした曇天のひかり。
まだ乾かない水彩の絵、という喩が、雪が降りはじめるまえの、泣き出しそうな雲の表情を見事に捉えている、とさしあたり言っておこう。
にじんで、という結句の言いさしのあとには省略があって、これがくせ者だ。
素直に読めば、にじんでいる、にじんでみえる、といったところか、しかし。
にじんでみえてあわれだ。にじんでみえてなんだかせつない。
そんなふうに読むこともできる。
繰り返し読んでいるうちに、省略されているのは、主人公自身のこころの手ざわりなのではないか、と思えてきた。
雪くる朝の雲がにじんでいるような俺のこころ。
まだ乾かない水彩の絵のような俺のこころ。
昨夜、ひとりで思いつめた何かが、けさ家を出たいまも、こころに澱のように残っている。
そう読むと、初句から二句目への屈託のある句またがりも、主人公のうちなる肉声として読者のこころにひびいてくる。
出勤途中の景色だろう。
主人公は否応なく昼間の顔を取り戻し、こころはいつか平静にもどってゆく。
そして、そのころ、窓には雪がふりはじめている。