地下のバー酔ひやすくして己が手に残る時間を人ら埋(う)もるる

篠弘『凱旋門』(1999年)

歳晩をむかえると、どうしても時間について意識することが多くなる。
江戸さんが、きのう太宰を引用したので、「葉」をひらひらと再読した。
四半世紀以上前の新潮文庫版の『晩年』。はじめて買った本ではないが、自分の小遣いで買ったはじめの何冊かの一冊である。
巻末の解説には、「昭和十一年(一九三六)六月二十五日、砂子屋書房より刊行された」とある。
代替わりはしているが、その名前をつぐ出版社のホームページに、このような連載をする機会をいただくとは、むろん当時は夢にも思わなかった。
ことしは、太宰治の生誕百年にあたる。

バーには、ふつう窓がない。
ビルの構造上の理由もあるが、たとえ職場のちかくであっても、そこで酒を飲んで過ごす時間は昼間とは別世界にいたい、という欲求にこたえるためだろう。
地下のバーであれば、尚更にそんな雰囲気がある。
酔いやすいのは、そこがなじみのバーだからなのだろうが、地下という言葉は、埋もるる、という結句にも縁語的にはたらいている。

飲んでくつろぎ、ときには酔って昂ぶり、そして、しばしば翌朝の宿酔に後悔する。
お酒とのつきあいはひとによってさまざまだが、生きてゆく時間に、仕事とは別の起伏をあたえてくれる。
一方で、仕事をかかえながら飲んでいるときなど、こんなことしてていいのかな、とじりじりとした焦りを感じることもある。
飲まなければいいのだが、そんなときのお酒にかぎって、またとてもうまいのだ。

主人公は心地よく酔いながら、己が手に残る時間、を意識する。
それは残りの生の時間であるかも知れないが、どちらかというと、職を退くまでに残された時間という意味だろう。
定年というのは、ある意味で死よりも厳然と、はっきりと行く手に見える。

うしろより誰ひとり来ぬ倒れたるまま点りつぐ工事のライト
歌集には、こんな歌もある。
仕事帰り、バーで過ごした帰り路かも知れない。
街中だろうから、うしろより誰ひとり来ぬ、というのはたぶんじっさいの風景ではない。
倒れても、誰もうしろから抱え起こしてくれるひとがいない。
そんなかなしい人間の姿を、倒れたまま点りつづけるライトに主人公はつかのま見たのだろう。
企業ありようも、文学のありかたも、そして街並みも、時代とともに変わってゆく。
うしろより誰ひとり来ぬ、というのは主人公自身のそんな感懐でもある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です