河野愛子『魚文光』(1972年)
この夏、『ルーヴル美術館展』でジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工ヨセフ」の絵画を観た。梁に穴を穿つ作業をするヨハネの傍に、蠟燭を持った幼いキリストが描かれている。
イエス・キリストはナザレの町に生まれた。
「若きナザレの聖工匠の子」とはまさにイエス・キリストである。
イエス・キリストがマリアにむかって「かかはりなし」と言ったのは、カナにおける婚礼においてである。それはヨハネによる福音書の第二章に書かれている。
マリアはたしかにイエス・キリストの母であった。けれど、イエス・キリストが救い主として生まれた以上、母との間には神が介在する。それは人間的な母子の関わりを超越したものである。
じっさい、幼子が生まれたとき、マリアはシメオンからこう言われる。
ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。(ルカによる福音書第2章)
わが子でありながら、わが子として接することのできないマリア。
胸をつるぎで刺し貫かれる、というのはおそらくそんなマリアの苦悩を予言したものだったのだ。
「若きナザレの聖工匠の子も」の「も」に、イエス・キリストとマリアの関係とは少しちがうが、作者のおもいがすべてこめられている。
子どもは親に育まれ、やがて親を否定し、そして親を超えていくもの。
自分が産み育てた子どもが成長していく姿を、じっと見守るしかない哀しみと寂しさが低く静かに語られている。