光森裕樹


新姓を貼り付けられて生き延びるこのベランダは終着点なり

天道なお『NR』(書肆侃侃房:2013年)


(☜3月29日(水)「人から見た自分 (2)」より続く)

 

◆ 人から見た自分 (3)

 

結婚をして姓が変わり、これまで生きてきた姓では呼ばれなくなった。新姓はなんだかラベルのように私自身に無理やり貼り付けられたもののように感じられる。日々をたしかに送っているものの、それはかろうじて「生き延び」ているようなものにすぎず、いまひとり立つベランダが人生の終着点のように感じられる――
 

ベランダには洗濯物を干しに立ったのか、それともなんとなく部屋に居づらくて立ったのか。そこは住居の一部のようでいて、外の世界のようでもある。いや、どちらにも属していないような空間だからこそ、ここに来てしまうのだろうか。ベランダという高さを感じさせる場所と「終着点」という言葉の組み合わせは、そこから一歩踏み出せば飛び降りてしまえることを想像させ、読んでいて苦しくなる。
 

集中にはこんな歌もあった。
 

婚決めし前の揺らいだまなざしと旧姓記される社員証

 

結婚に迷いのあるころの自分の表情を、結婚を選び、新姓となったいま見つめる。いまの自分がどのようなまなざしをしているかは語られず、読者の想像に任されており、その点でこの歌にも苦しさを感じる。
 

もしかしたら、職場では旧姓のままで働いているのかもしれない。けれども、日常をとりかこむ多くの人にとっては、私は「新姓の私」である。
 

近所の人々は、すれ違うときにはにこやかに挨拶をする<新姓さん>が、ときおりベランダに立ってはあやうげに外を眺めているのを、目撃しているのかもしれない。
 

もしそこから飛び降りたとしたら、命を失うのは「旧姓の私」なのか「新姓の私」なのか――。「私」がどう考えようと、人から見れば<新姓さん>の死であることだけは間違いないのだろう。
 
 

(☞次回、4月3日(月)「人から見た自分 (4)」へと続く)