自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず

富小路禎子『白暁』(1970年・新星書房)

 

ビルの高層化がすすむにつれてエレベーターは、ますます生活に欠かせない移動装置となっている。空中に吊り下がっている箱だから、乗ってしまえば何処かで降りなければならず、降りる階のボタンを選択しなければならない。

 

自動化はエレベーターだけでなく、わたしたちは、意識を自動化することで日々を保っているともいえる。だから「ボタン」にいちいち立ち止まっていては、日常生活は円滑に進まない。それでも、ふだん無意識にしている選択をあらためて自問するときが、わたしたちにはあるものだ。

 

引用歌は、下句の「真実ゆきたき階」と、ちょっと大きく言って「エレベーター」を暗喩として働かせている。日々の暮らしに、自己を満足させる必然性を見出せずにいるのだ。

 

『白暁』が刊行された1970年は、大阪で万国博覧会が催され、三島由紀夫が割腹した年である。経済成長の大きな波の中で、戦争の記憶の風化が叫ばれていた。日本の敗戦によって一切を失った旧華族富小路禎子の意識は、戦後の男女平等や民主主義を讃えながらも、つねに醒めており、身を熱狂や群れから遠くに置いた。だから「手がふと迷ふ」のである。社会の表層に目を奪われていては見えない、戦後の一面である。

 

つるされてかく宙にゐる吾のさまぶらんこの上なれば誰もわらはず

白き砂漠の中に建てたき父母の墓長き家系の末に苦しむ

ガラス戸の向うに月光の街が見ゆ窓開けば何もないかもしれぬ

 

自己存在の空虚を歌う。これは、富小路ひとりの空虚ではなかった。