田島千捺「アポカリプティック・フィクション」(『京大短歌』23号:2017年)
(☜9月22日(金)「学生短歌会の歌 (16)」より続く)
学生短歌会の歌 (17)
ふと通りかかった年季の入ったような葬儀屋。その戸の前にドライアイスを入れたケースが見える――
もちろん、ドライアイスはご遺体を冷やすためのものであり、当然葬儀屋にあってしかるべきものである。しかし、入口前にケースがどんと置かれると、いかにも葬儀屋であることがあからさまであり、さすがに驚いてしまう。
このような「いかにも葬儀屋であること」を極力隠したものが、「セレモニーホール」と呼ばれる最近の<葬儀屋>のあり方なのであろう。どちらが良いかという話ではなく、ただそこに「死」についての感覚の変化を思うのである。
掲出歌では、「昔からあった感じ」という話し言葉と、「ドライ・アイス・ボックス」に置かれた中黒が刻む軽快なリズムが面白い。葬儀屋のあり方について深入りするのではなく、ただドライアイスのケースがあるな、と一瞬思ってそのまま通り過ぎてゆくようだ。
雨水をふくんだ傘をぶらさげてさっぱり来ないバス停にいる
同じ連作からもう一首引いてみた。こちらも、「さっぱり」という話し言葉の存在が一首をふわりと軽いものにしている。
外は随分と雨がふっているのだろう。一向に来ないバスに悪態の一つでも言いたくなるものだが、「さっぱり」という一語が「――どうしようもないし、まぁいいか」という風通しの良さを生む。
(☞次回、9月27日(水)「学生短歌会の歌 (18)」へと続く)