かかわりのない伝言の前を過ぎてく

早坂類『風の吹く日にベランダにいる』(河出書房新社:1993年)


今ではほとんど見かけることがなくなったが、昔は駅などに伝言板があった。携帯電話が普及していない頃には、急ぎの用事を誰かに確実に連絡することは難しい。メッセージは相手の〈現在〉に向けて送るものではなく、相手の〈未来〉に向けて伝言板などに書き置くものだった。
 

「先に行く PM3:00」という伝言が示すのは、誰かがそこに確実にいたということであり、本当に午後三時まで待っていたのかは分からない。実際には三時半まで待っていたけれども、思うところがあって三時と書いたのかもしれないし、その逆かもしれない。待たせていた人は伝言を見て、相手の性格を勘案しつつ時刻の意味を解釈することになるのだろう。
 

面白いことに、誰しもが携帯端末でメッセージをやりとりできる時代においては、この不確かさが逆になる。つまり、「先に行く PM3:00」というメッセージを受け取った場合、書き手が午後三時にそのメッセージを送ったことは確かであるが、一体にどこにいるのか、また本当に先に行ったのかは確かではない。
 

掲出歌の時代に話を戻すと、もちろん、待たせていた人が伝言を見たのかどうかも不確かなことである。そんな届いたのかどうかも分からない伝言を、〈私〉はちらりと見やって通り過ぎていく。
 

待った人物、待たせた人物、待つことも待たせることもない〈私〉。そんな三人が一首の登場人物として立ち現れつつ、同時に顔を合わせることなくすれ違ってゆく。
 

掲示板の前で日々繰り返されていた、ささやかなドラマである。