降ってきたよと言いながら窓を閉めてゆく 急に二人の部屋になりゆく

岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』(2017年・青磁社)

 

何かが切っ掛けで、無自覚だったことが急に意識化されることがある。たとえば、この歌のように。雨が降ってきたので窓を閉める。部屋の中に吹き込む雨を防ぐためだ。それが契機になって部屋の空気感が変わる。「二人になる」ではなく「二人の部屋になる」という。空間の意味が変わるのである。

 

意識化されるにつれて、「二人」は、場合によってはぎこちなく、あるいは親密に、あるいは気まずくなる。人間ではなく、部屋が話題になっている点、また、「ゆく」が二回繰り返されている点、読み飛ばしそうな言葉の細部に、鋭敏な神経が届いている。

 

『わたくしが樹木であれば』は、内容もセクシーな場面が歌われているのだが、それとは別に、一首一首が、裸の言葉=世界に直接触ってしまうような、ひりひりした身体感覚を内包している。ひところ歌壇で身体感覚が話題になったことがあったが、身体感覚を歌うことと、言葉が身体性を持つこととは異なる。これは後者。

 

ライフルを誰かに向けて撃つように傘を広げる真夏の空に

「包んでください」というときふいに華やぎて鞦韆のごと揺れながら待つ

ああこれが森だったのだ 呼び戻す声を後ろに入りぬ、ふかく

 

読み終って、『わたくしが樹木であれば』と似たものを感じたことがあったなあと考えた。都市の一隅に住む若い女性を主人公にしたフランスかドイツの映画だったと思う。作品内で自我が自立している。