コスモスがもつれて咲いている駅にしゃがめば澱む夕影の中

花山周子『風とマルス』(2014年・青磁社)

 

歌集標題にあるマルスは「デッサンのモチーフとして何度も描かされた石膏像のマルス」(あとがき)だという。画学生が、光と影で面や立体を精確にとらえる修練をする、あの石膏像である。歌集を読んでゆくと、デッサンのモチーフに鍛えられた作者の目を感じるときがあり、おっと思う。それは、短歌の技法や方法として唱えられてきた写生や写実に、もちろん通じてはいるが、しかしどこか肌触りが違って感じられる。作者と描かれるものとの関係が異なるのだと思われる。たとえば掲出の歌のようにコスモスを歌うとき、演劇でいう小道具のような働きをする気配がないのである。コスモスは、主題をいうための道具として歌の中に咲いているのではない。

 

この歌は、「もつれて」が大事である。「もつれて」という語を運んできたのはコスモスをデッサンする目であろう。情を差し挟まずに様態を鮮やかに浮き上がらせている。「もつれて」は、「しゃがむ」「澱む」とともに、鬱屈し内向する自我のありようを、読む者に想像させる。低いアングルから撮った写真のような趣があるのはそのためだろう。

 

安全ピンに留められている地図一枚の太平洋の広さがたる

口笛を吹いて遠くに飛ばされる音を見ていつ顔尖らせて

真っ白なうさぎは伸びて長ながと身体の先に水をなめいる

 

わたしたちは、地図や口笛や兎に日々遭遇しているが、このように捉えることがなかなかない。自分の感情や既成概念にとらわれているからだろう。感情や概念の膜を剥がすことは、口でいう程に容易ではない。