観賞用金魚百匹と日を送る 観られているのは吾かもしれず

岡しのぶ『もし君と結ばれなければ』(ネスコ:1996年)


 

◆ 金魚

 

百匹の金魚を飼うにはどれほど大きな水槽がいるのだろうか。おそらくは、部屋という空間を大きく占めて水槽が置かれており、そのなかを金魚が赤い鰭をちいさくひらひらと揺らしている。
 

金魚に囲まれて暮らす日々のなかで、ふと私が金魚を飼って観ているのではなく、金魚が私を飼って観ているのではないかと思う。そのとき、部屋にひしめく水槽こそが私を囲う檻のような存在となる。文字通り、ものの〈見方〉が大きく逆転している。
 

たとえ、私が金魚に観られる存在であったとしても、この部屋に帰ってくるしかない。掲出歌は、表情に乏しい魚の眼に見つめられる不気味さを潜ませつつも、案外観られていることを肯定しているような感覚も感じられた。
 

金魚鉢に金魚のゐない理髪店おまけにくれた十円硬貨  新井蜜『鹿に逢ふ』

 

百匹もの金魚に続いて、こちらは金魚がいない金魚鉢が登場する一首。
 

金魚が死んでしまったのにち、単に片付けることが面倒で鉢をそのまましているのか。あるいは、金魚が死んでしまったことに気付いていないのか、それとも私には見えない何かを飼っているのか。
 

いずれであっても何だか怖い。その怖さは、十円をおまけしてくれるという店主のやさしい気遣いのためにいっそう膨れていく。
 

にこにこした店主の顔の向こうに、金魚鉢が見える。何もいないはずのその鉢もまた、私や店主をじっと観察している存在のように思えてくる――