千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』(風媒社:2003年)
掲出歌は「靴麿と海を見に行く」という連作の一首。
中学生か高校生時代を思い出しての連作だろうか。変わった名前(?)の「靴麿」とは、次の歌のような人物である。
「靴磨き」を「くつまろ」と読んだから君のあだ名は靴麿 自称「まろ」なり靴麿は授業を抜け出し駅前で火事を見、泣いて戻ってきたっけ不良なら新潮文庫の上辺よりもっと激しく不揃いでいろ
「靴磨き」という字を「くつまろ」と読んでしまうことも面白いが、「くつまろ」があだ名となったことに乗っかって、「まろ」と自称するあたりに、お調子者である様がうかがえる。実は授業を抜け出すような不良でありつつ、目撃した火事に何を思ったのか感傷的になって泣いてしまう心の持ち主であり、まったくもって憎めない。
〈私〉はそんな靴麿と一緒に海に出かけ、掲出歌へと至る。
恋愛が恥ずかしかった夏 海を見るためだけに海に出かけた
思春期にあったことを「恋愛が恥ずかしかった」と表現したことに、こころが射抜かれる。人からの見た目を過剰に気にしておしゃれをする一方で、「恋愛」そのものについては踏み出すことも、人に語ることも勇気のいることであった。そんな矛盾をはらんだ時期をみごとに言い表している。
気になる人と見たのであれば、海は脇役となり、何の変哲もない〈ステキな思い出〉を生み出す手段となっていたのだろう。しかし、靴麿と行くのだから、海はそれ自体が目的となり、文字通り「海を見るためだけに海に出かけ」るのである。
靴麿を呼ぶ声、そして、靴麿が自身を「まろ」と言う声が海辺に響く――
ちょっぴり冴えなくとも、何年経っても思春期の場面としてこころに打ち寄せるのは、こんな思い出のほうではないだろうか。