猫の腹に移りし金魚けんらんと透視されつつ夕日の刻を

杉﨑恒夫『食卓の音楽』(六花書林:2011年:新装版)


 

飼っていたものだろうか、金魚が猫に食べられてしまう。しかし、金魚という存在はなくなってしまったのではなく、猫のお腹のなかに移動しただけであり、〈私〉にはそれがありありと見えている。
 

空を覆う夕日の赤色と、それに比べると一点ほどの存在にすぎない金魚の赤色が印象に残る。金魚は猫のお腹のなかにあるが、猫を含めた私たちすべてが金魚のお腹のなかにいるかのごとく夕日に包まれている。そんな入れ子構造が、一首の背後に浮かぶ。
 

高野公彦の次の一首を思い浮かべる人もいるだろうか。
 

ねむる鳥その胃の中に溶けてゆく羽蟻もあらむ雷ひかる夜  高野公彦『水苑』

 

こちらは場面は夕日ではなく雷の夜である。夕日の赤い光や雷の強い光が、猫や鳥の身体を透かして見せるのだろう。
 

捕食するものと、捕食されるものの残酷な関係を場面としつつも、「けんらん」とかがやく金魚も、雷光に煌めく羽蟻の羽もどこか幻想的で美しい映像を観せる。
 

青吉野とほき五月に料理せし山鳥の胃に茶の芽匂ひき  前登志夫『子午線の繭』

 

胃の歌(?)をもう一首。こちらの一首には、強い光が出てこない。実際に自ら山鳥を捌いたときの歌だろう。お腹を裂くと、鳥がついばんだお茶の芽の香りが香ってきた。「とほき五月」のことでありながら、いつまでも記憶に残っている光景という。残酷な場面でありつつ、前の歌にもつよい美が漂っているように感じる。