我ならぬ生命いのちの音をわが体内みぬちにききつつこころさびしむものを

五島美代子『暖流』(1936年・三省堂)

 

「母の歌」というとこの作者を思う。身籠り、出産し、育児を通して作品世界を膨らませた。女性としての感情の揺れを正面から歌い続け、迷い、悩み、歌い続けた。

 

今では、妊娠のかなり早い段階で、精密な超音波映像や羊水検査などによって、胎児の性別や病気の確率を知ることができるらしいが、この歌が詠まれた大正の末、生まれて初めて子どもと対面するまで、母は、ただ「生命の音」として、胎児を感じているのであった。初めて身籠った女性にとって、視覚的イメージを与えられ、胎児の成長を映像で確かめられる今日と、胎動に驚きつつ体感によって、もう一つの「生命」を体内に感じ続けるのとでは、母の心はずいぶん違っていただろう。ここでの「ききつつ」には、それゆえに胎児の「生命」の存在の直接的な重さがある。「さびしむ」は、まだ形とならない「生命」の、不安や怖れや、愛おしさの混在した感情であるだろう。同じ「胎動」の小題で【人の子の赤ききぬなど目につきてひそかにゑがく吾子の面かげ】【胎動のおほにしづけきあしたかな吾子の思ひもやすけかるらし】とも歌っている。

 

自分と顔を見あはせてゐるやうな不思議な気もち 子とゑみかはす

あぶないものばかり持ちたがる子の手から次次にものをとり上げて ふつと寂し

自分の子には決してさせる日がないと安心して危険な作業の前を通り過ぎるのか

 

「母」の目は、人間存在や社会が抱える女性の諸問題をするどく突きつけてくる契機ともなった。