中山俊一『水銀飛行』(書肆侃侃房:2016年)
気がつくと夢の中で農機のレバーを握りしめている。なんでこんな夢を…などと深くは考えずに、田んぼの稲を刈り始める――
「しょうがねぇなァ」というつぶやきにユーモアがある。表面上は面倒くさそうであるが、心のなかではノリノリであることが伝わってくる。夜の田んぼに農機を豪快に駆らせるさまが目に浮かぶ。
人の夢の話が面白かったためしがない。その夢を見た本人にとっては、現実的な感覚のままに非日常的な世界が繰り広げられるのを楽しんだのかもしれない。しかし、それを聞かさせる側にとっては、何が起きようと夢だから当然なのである。
だから、掲出歌の面白さは「農機具」に乗っていたことにあるのではなく、「しょうがねぇなァ」と言いながら田んぼを刈ることに浮かんでくる、無頼を気取りつつも、おだてにすぐにのってしまうような主体の性格にある。
この人はこの先、現実世界でどのようなことがあっても「しょうがねぇなァ」で乗り切っていくんじゃないか。そんな人柄が、いつまでも印象に残る。
原宿的色彩に死す蕎麦挽きの水車が回る農村でキスうけいれるかたちはすべてなだらかに夏美のバイオリンの顎あて
掲出歌の「田園」、あるいは先に引いた「〜に死す」や「夏美」という語には、寺山修司への意識があるように思える。
――さて、もし寺山が夢の中で農機具に乗っていたらどうするだろうか?
やはり、芝居がかったように「しょうがねぇなァ」と言いつつ、エンジンを掛けるためにキーを回したように思える。歌から離れ、そんな想像を楽しんでみる。