池田はるみ『南無 晩ごはん』(青磁社:2010年)
ながく愛用してきた古い掃除機なのだろう。重たい本体をむりやりひっぱっていくうちに、ごろりとひっくり返る。面倒なので仰向けになった掃除機をそのままひっぱりながら掃除を続ける。
「ずぼら」なのは、本当は仰向きなった掃除機を戻さない自分自身のほうなのかもしれない。それを、自ら起き上がらない掃除機に向けたことが面白い。散歩を嫌がるペットの犬のように、掃除機はずるずると引きづられていく。
掃除機よ、なう肝心のリビングだここまできたら頑張つていかうなんでかう軽薄なのか一瞬をわかつたやうに動いて壊る
掲出歌と同じ連作の二首を引いた。掃除機を時に励まし、時には突き放す。愛憎の振幅にユーモアがある。
すぐにひっくり返らないようにすることや、すぐに壊れないようにする。そのような進化の先に、今や掃除機はひとりで掃除してひとりで寝床(?)に戻るようにもなった。ペットのように見られることは変わりないけれども、飼い主よりも賢くなった犬のようでなんだか怖くもある。
翻って、池田はるみの歌に登場する掃除機の駄目具合が懐かしく思い出される。
しばらくの静謐ののち裏返るミュージックテープは魚のごとしも 吉川宏志『青蟬』労働の果のつまりたるぴらぴらのフロッピー一葉もちて歩むも 大塚寅彦『空とぶ女友達』ワープロの文字美しき春の夜「酔っています」とかかれておりぬ 俵万智『とれたての短歌です。』
音楽もデータも、テープやフロッピーという媒体ではなく、クラウドと呼ばれる〈この世のどこか〉に保存されるようになり、すっかり見なくなった。筐体としてのワープロも、OS上で動作するワープロソフトに変わり、それを知らない世代も多いだろう。
家電を中心とした日常生活をとりかこむ機器は次々と進化してゆく。新しい姿と新しい便利を生むということは、つまりは、新しい懐かしさを生むということである。そう考えると、進化という物事もどこか血の通った営為のように思われる。