伊勢方信『ピアフは歌ふ』(2017年・本阿弥書店)
歌作工房は、特別な道具や設備を必要としない。紙と鉛筆と消しゴムとアイデアのみ。まことに簡素である。だから、誰でも何処でも年齢制限もなく作歌できるなどと言われるけれども、一歩踏み込めば奥は深い。スマホやパソコンでの作歌がふつうになっても、簡素であることに変わりはない。が、言葉の質感が大きく変わった。紙や鉛筆や消ゴムの手触りとともにあった言葉が、つるりと均一な言葉になったと思う。それはそれで時代の反映ではあるが、消ゴムの推敲によって練られた言葉の感触は忘れがたい。消されたものの気配が纏いついて、一首に彫りの深さをもたらす。
『ピアフは歌ふ』では、来し方を振り返ったときの思いと、現代という時代が抱える不安が交錯する。父母、亡き妹、妻子を、繰り返し歌っているが、いわゆる家族詠ではない。作者の視線は、家族の背後の、より広く遠い、家族が生きた時代や社会に向いている。
あをじろき頭蓋のごとく定置網の浮標揺れゐつ雪降る湾に
木守り柿くたち落ちたる枝先に
ミサイルの部位に化けゆく日もあらむ圧延工場に鉄伸されゆく
浮標を「あをじろき頭蓋」と見るとき、柿の木の枝に「蛇の殻」を見るとき、「圧延工場に鉄」を見るとき、作者の中には現代社会が抱える不安が揺れ動く。そこには、言葉にならなかった、消しゴムで消された言葉がたくさんある。消された言葉は、読者に意味を届けることはないが、言語化できない何かを確かに残すものだ。