光森裕樹


地震やらサリンがばら撒かれたときになんで俺らは産まれたのだろう

久納美輝「勝手にしてくれ」(「淑大短歌」第二号:2017年)


(☜11月27日(月)「学生短歌会の歌 (26)」より続く)

 

学生短歌会の歌 (27)

 

「地震」は阪神・淡路大震災、「サリン」は地下鉄サリン事件のことを指すのだろう。どちらも1995年の出来事である。
 

これらの大きな出来事がおきたときに「なんで俺らは産まれたのだろう」と思う。〈なぜ産まれたのか〉ということに対する疑問だが、問うていることは、〈産まれなくてもよかったのではないか〉という他の選択肢のことではなく、〈なにを目的に産まれたのか〉という宿命や使命のことのように思える。
 

1995年に産まれた人々は、人生のなかで何度も「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」の年に産まれたことを言われ、意識させられてきたのだろう。自分自身の記憶にはまったくない出来事に宿命付けられる。あるいは、何かの使命のようなものを周囲から勝手に期待される。
 

ぬっとりとしたものがつねに身にまとわりついているような感覚だろうか。決して良い気持ちではないはずだ。
 

一年の終わりに、その年に起こったできごとを象徴的に振り返る。短歌総合誌の年間回顧も、もっと広く新聞などのメディアも含めてもいい。あるいは、その年の漢字を決めたり、その年の新卒入社社員を何かに例えたり(これは春の出来事か)。時代に対する捨象と凝縮の結果が、ときに誰かの生き方を狭めたり苦しいものにしたりする。
 

そのようなことがあることに、掲出歌を読むまで気づかなかった。
 
 

(☞次回、12月1日(金)「学生短歌会の歌 (28)」へと続く)