建築のあいまを燃やすあさやけを飛びながら死ぬ冬の鳥類

吉田隼人『忘却のための試論』(2015年・書肆侃侃房)

 

気象予報では、今日も、北からの寒気団による厳しい朝の冷え込みが報じられている。寒さに震えながら見る朝焼けは美しく荘厳であると、わたしは思う。また、同時に非情や酷薄を内包する。

 

掲出の歌は、「あさやけ」の荘厳な美と非情酷薄を、歌一首の中につくっている。体験を語るのではなく、普遍化された「あさやけ」。一首の普遍化に大きな役割をはたしているのは「建築」「鳥類」などの概念語である。わたしたちは、作歌の初歩に、概念を排して、細かく観察し具体を述べよとアドヴァイスを受ける。それとは真逆に、「建築」「鳥類」というのである。

 

「建築のあいま」を、例えば「ビルのあいだ」とすると、とても具体的になるが、一挙に現実の表現にかたむく。「建築のあいま」と「ビルのあいだ」には、作歌の立場を示す大きな違いがある。『忘却のための試論』の作者は、脳内のイメージを、現実のモノやコトに翻訳したり固定したりしたくないのだろう。イメージはイメージのまま歌おうということだ。一首の空間が広々としているのは、「あさやけ」の空のためでもあるが、現実から解放された言葉のせいでもあるだろう。

 

枯野とはすなはち花野 そこでする焚火はすべて火葬とおもふ

神もまたねむる ねむりてみるゆめのなごりともみえたゆたふ水母くらげ

くらきそら、そらのくらさは重力のくらさともへばしほのみちくる

 

「詩歌に限らず文芸一般は言語を質料マチエール、想像力を形相フォルムとして、作家の実人生とは何ら関係ないところに反現実・反世界の虚構空間を立ち上げるきわめて不毛な営みだ」と、巻末の「Epilogue または、わが墓碑銘エピタフ」にある。歌論というより果敢な文学論に基づく歌集である。