二三川練「それを夜と呼ぶ」(『象』第五号:2017年)
(☜12月4日(月)「学生短歌会の歌 (29)」より続く)
学生短歌会の歌 (30)
好んで食べることが多いメロンパンを、今日も食べる。いつもは気にも留めない袋のあけ方に拘ってみて、綺麗にあける――
ただそれだけであることに驚かされる。恋愛にともなう高揚や、青春のきらめきのようなものの匂いがまったくしない。まるでメロンパンをつつむ袋のように主体の存在は透明であり、街なかでメロンパンを食べるその姿を見かけても気が付かないかもしれない。
牛乳のパックの口をあけたもう死んでもいいというくらい完璧に 中澤系『uta 0001.txt』(2004)
中澤系の歌では、牛乳パックの口を綺麗にあけることができただけで、「死んでもいい」という極端な発想にこころのメーターが振り切る。一方で、二三川の歌では綺麗に袋をあけた後はたんたんとメロンパンを食べていそうだ。
思えば「おっ、青春だねぇ」や「さすが、若者だねぇ」と言いたくて、若い世代の作品を開くことがあった。短歌は青春の詩型だと確認することが、その年代を過ぎた者にとってどのような意味があるのか分からないが、やはりその〈再確認〉がしたかった。
しかし、学生短歌会の歌を拾いつつ思うのは、こちらがかってに想像する類型性から逃れた歌があることだ。もっと言えば、そちらのほうが多く、そして面白い。
完璧な人になりたい レトルトのおいしいカレーをおいしく食べる
同じ連作から引いた。
なんの飾り気もないレトルト食品の最大公約数的なおいしさを素直に享受する主体は、「完璧な人」には程遠いように思える。もっとこうエネルギッシュでがつがつと食べなければいけないんじゃないか――と考えて立ち止まる。もはや、私が考える「完璧な人」像と、作者のそれが全く異なっているのではないかと。
もしかすると、レトルトカレーをおいしく食べることこそが、完璧な人への一歩だと考えているかもしれない。そうではない、という根拠はどこにもないのだ。
(〆「学生短歌会の歌」おわり)