櫛田有希「滅ぶならあれになりたい」(「象」第五号:2017年)
(☜12月1日(金)「学生短歌会の歌 (28)」より続く)
学生短歌会の歌 (29)
「あら汁」を、それが何の魚の〈あら〉なのか分からないままにていねいに食べる。何の魚なのか分からないので、意識はそれ以上「あら汁」について深く追究することはできない。
そのため、一首の中では意識は括弧の中に追いやられ、短歌の表面に現れるのは「あら汁のあら」だけとなっている。ナンセンスが光る一首である。
同じ連作から、ナンセンスを感じさせる歌をもう一首。
祖父ねむる施設の壁に「復旧」のボタンがついていてじっと見る
施設にいる祖父を訪れたとき、壁に「復旧」と書かれたボタンを見つけた。何らかの機械が停止した時に押すボタンだろうが、それらしいものも見えない。これを押すと一体何が起こるのか…とまじまじと見てしまう。
おそらくは健康ではない祖父の存在と、「復旧」という即物的な表現の取り合わせがあやうい。もしかすると、「復旧」ボタンを押すと祖父さえも直って(治って)しまうかも…などというナンセンスな想像を誘う。
「なんでこんなとこにいるの」とつぶやいて水族館を歩く子どもは
こちらの一首もじんわりと面白い。観るために各地からわざわざ連れてこられた水生生物たちだが、子どもにはその水族館が水族館たる所以が分からない。
だから、なぜこんなところに魚たちが集められているのか、という根本的な疑問を発する。おそらくは、生き物について楽しく学んで欲しいと思いつつ連れてきた親の心情を想像すると、まったく同情してしまう。
あら汁は一体何の魚でつくったものなのか、また、施設の復旧ボタンが何のためのものなのか、そして、魚はなぜ海でもない巨大な空間に集められているのか――私たちの無頓着さや常識をぺろりとめくって見せるような歌に作者の持ち味を感じた。
(☞次回、12月6日(水)「学生短歌会の歌 (30)」へと続く)