とぎ水を捨てつつ思ふこの島に取り残さるるごときうつし身

森山良太『西天流離』(ぶどうの木出版:2005年)


 

米を研いでは、白く濁った水を捨てる。白くもやもやとしたとぎ汁は、まるで米から遊離した魂のようだが、米の身体とも言える本体側(?)は流れ出さないように手でがっちりと押さえられてボールに残ったままだ。そんな様子に、島に赴任してきた自身の姿が重なる――
 

赴任先の島が鹿児島県の徳之島であることが歌集から分かるが、どうにも思うところがあるようだ。
 

やうやくに職を得にけり(みんなみ)の海の彼方に任地定まる  「遠く、来にけり」
職を得て流謫のごとし天井に這へるヤモリの夜を高鳴く  「スコール」

 

なんとかして職を得たものの、そこは奄美群島の島のひとつであった。一首目では「海の彼方」という表現に、赴任先が遠方であることへの率直な感情が浮かぶ。二首目の、「流謫」とはいわゆる「島流し」を意味するが、耳慣れない婉曲的な表現であるようでいて、やはりその意味するところには素直な感情が込められているだろう。どちらの歌からも、職を得たという良いことを、一気に打ち消すような遠さを徳之島に感じていることが分かる。チッチッチッ…と鳴くヤモリの声も、己をあざ笑うかのように聞こえてくる。
 

やがて森山は徳之島での生活を深めていくのであるが、赴任が決まってから暮らしに馴染むまでのもやもやとした心情の描写は、第51回角川短歌賞受賞作「闘牛の島」の力強さからは対極にあるようで、非常に面白く、興味深い。
 

国内外を問わず、遠方に暮らしの舞台を移すということは必ずしも、楽しみや喜びばかりを伴うわけではない。そのようなあたりまえを掲出歌は教えてくれる。