光森裕樹


酔ひ深き夫がそこのみ繰り返す沖縄を返せ沖縄を返せ

佐藤モニカ『夏の領域』(本阿弥書店:2017年)


 

結婚をして間もないころを詠んだ連作「さーふーふー」には次のような歌がある。
 

むかし夫は春の妖精役なりき舞台のうへにスキップをして

 

幼稚園・保育園の生活発表会でのことだろうか。夫の幼少時代のことを知る。出会うはるか前の幼かった相手の姿を想像することはもちろん、今の夫が妖精の格好をしてスキップしたら…という想像もしたに違いない。読者としても、思わず想像してしまう。
 

相手が、今でも妖精が似合うようなどこかふんわりとした性格の人物なのか、それとも妖精の格好はちょっと…というような人物なのかは分からない。いずれにせよ、相手のことをより深く知ったことの嬉しさが「妖精役なりき」の「なりき」という、直接見てきたかのようなきっぱりとした表現から感じられる。
 

同じ連作からもう一首。
 

歩きつつ左手の指輪確かむる夫の姿をベランダより見る

 

夫が仕事場に向かうときか、あるいは家に帰ってきたときのことか。ベランダから夫を見下ろして眺めていると、しきりに結婚指輪を確かめている。
 

つけなれていない指輪がどうにも気になる気持ちは、非常によく分かる。傷ついたりしていないか、あるいは落としてしまったりしていないか――指輪への気遣いはそのまま、結婚生活への向き合い方そのものではないだろうか。
 

おそらく、相手はこちらに気付いていないのだろう。それだけに、相手のそのままの姿が見えてきそうな場面だ。
 

連作題の「さーふーふー」が何を意味するかは、最後の一首で分かるようになっている。
 

さーふーふーはほろ酔ひの意味さーふーふーの君と月夜の道歩き出す

 

沖縄出身の夫から、沖縄の言葉をひとつ教えてもらう。「さーふーふー」が「さぁ夫婦(になる/なろう)」にも聞こえる、というと洒落が過ぎるかもしれないが、それも方言に触れる面白さのひとつだろう。
 

お酒で上気したときの楽しげな雰囲気と、静かな月夜の空気が印象に残る。二人で歩く月夜の道は、これからの生き方そのものを表してもいる。
 

掲出歌は続く連作「キャンベルスープ」に収められている。
 

酔ひ深き夫がそこのみ繰り返す沖縄を返せ沖縄を返せ

 

夫の様子をつぶさに見つめている主体は素面だろうか。少なくとも「さーふーふー」には程遠い夫ほど酔っているわけではないのだろう。
 

「沖縄を返せ」という言葉には、少しばかり説明が必要かもしれない。沖縄が米統治下にあったころ、復帰運動のなかで歌われた歌のタイトルであり、歌詞のなかで繰り返される言葉である。
 

永田和宏に次の一首がある。
 

「沖縄を返せ」と歌ひゐし我ら『戦う民意』を恥深く閉づ  永田和宏「恥深く」(朝日新聞2016.1.1)

 

若かりしころには沖縄復帰運動のなかで「沖縄を返せ」と歌ってきたものの、実際に返還された後にどれだけ沖縄のことに関心を向けてきただろうか。現沖縄県知事の翁長雄志による著作『戦う民意』を読みながら深く恥じる思いがした――という歌意となろう。
 

〈アメリカ〉から〈日本〉に「沖縄を返せ」という歌が、日本に復帰したあとの現在の沖縄で、若い世代の夫の口から飛び出る。なぜ深く酔って初めてこの歌が飛び出すのか、また、誰から誰に「沖縄を返せ」なのか、夫の気持ちの奥底は杳として見えないかもしれないが、ともに長く生きていくなかで響き合うように分かる日がくるはずだ。
 

幼いころの夫の様子を知る。指輪に気にかける夫を遠く見る。深く酔った夫が何を歌うかを聞く。いずれも相手のこと新たに知る歌であるが、前歌二首が、主体側が何をひきうけることもなく〈幸せのポイント〉が溜まっていくような歌であることに対して、掲出歌には、相手のことを深く知る幸福とともに、主体がおおきな宿題を受け取った瞬間の歌のように思える。そこに、他人同士が一緒に生きるということの尊さを感じる。
 

――沖縄への注目度合いに比例して「沖縄詠」ばかりが求められているように感じる今、このことを書き留めておきたかった。