やや飽きし旅の窓辺においておくみづのかたちはひかりのかたち

西之原一貴(「塔」2004年3月号)


 

楽しい旅も、日が経つにつれて非日常ではなく日常にちかいものとなっていく。すこしばかり飽きてしまった旅のさなか、窓辺においた水が外の光に煌めくのを見る。それは、光そのものが水の容器に収まったかのようだ――
 

窓辺においた水は、ガラスコップに注いだ水だとも、ペットボトルの水だとも思える。どちらであっても、コップやペットボトルとは書かずに「おいておくみづ」と表現したことで、まるで水そのものがある形を保って窓辺に存在しているような不思議な感覚をもたらす。その水が溜め込むように光を集め、輝くさまは美しい。
 

「旅の窓辺」という表現も、例えば宿の窓のことなのか、電車の窓辺のことなのか、具体性が剥がされており、どこか観念的な雰囲気を一首全体に呼び込む。
 

「みずのかたちはひかりのかたち」という澄み切った把握の一方で、旅にはすこしばかり飽きている。正の方向と負の方向の認識のバランスが、一首全体を過剰なものにせず、非常に静かなものにしている。
 

結社誌に掲載された作品なので、必ずしも連作であるとは限らないかもしれないが、一群の作品には次の歌が並ぶ。
 

暗やみが暗やみを継ぐトンネルをうつむけばさらに圧力はきぬ
乗りかへるまでの時間を立つてゐるわが視野に降りてくる雪虫

 

ひとつづきのトンネルの中を電車で走りつつ、暗闇というものが、継がれたレールのように連続していることを感じている一首目。「時間を立つ」「視野に降りてくる」というやはり冷静な把握が目を引く二首目。いずれも掲出歌とおなじく、作品全体を観念の方向へスライドさせる。
 

旅のさなかで出会ったことや見た物事、それらも当然思い出にのこるものだろう。その一方で、なんとなく眺めていた窓辺の水など、なんでもないような物がいつまでも記憶に残ることがある。それこそが、旅の本質であるように思える。