みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか

光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』(2016年・書肆侃侃房)

 

地上に身を置いて眺めていると、上を見てあれが空だと、誰もがあたかも同じものを見ているような気になる。というより、そう思っていた。上空からの俯瞰写真や動画が日常の中にあふれている今、地球をとりまく空を、わたしたちは「空」と一括りにできない日々を生きるようになった。「空」とはどこをいうのか、あらためて考えると解らなくなる。

 

掲出の歌は、「空」は「みづからが飛べざる高さ」だという。地上からは空を飛んでいると見える鳥も、その先にもっと高い空がある。「空」が階層的に捉えられているのである。そのような空間把握には、時代の生んだ認識が反映していると思う。

 

きつときみはぼくらの子どもに触れさせる山椒魚よやさしくねつて

其のひとの荷物はすでに世にありて襁褓むつきの箱を積む部屋のすみ

其のひとは いつかのぼくで此のさきのどこかの君で、あなた、でしたか

 

歌集は、結婚して沖縄に住み、子をもうけ父となるという物語が、一本の経糸になって展開する。「きみとぼく」のあいだに生れるだろう「子ども」に胸を膨らませる。新生児の「襁褓」は首尾よく調えられて「あなた」が誕生する。どこにもある新生児誕生の光景である。けれども、胎児を「其のひと」と三人称で呼び、「この世」に生れた瞬間に「あなた」と二人称で呼びかけるのである。そのような表現には、どこからを「空」というのか考えるときと同じような空間把握=距離の計測がはたらいている。「其のひと」は、とても新しい感覚。親疎を測る認識と胎児を対等なものとみる尊重が、表現に示される。

 

他にも作歌上の果敢な挑戦がたくさん試みられており、「夕陽のさき」の新しい表現を探り続ける熱の感じられる一冊である。