忘れむとするならざれど面影の立つやこころのをののきて閉づ

島田修三「桜咲くころ」(角川「短歌」2018年1月号)

 


 

忘れようとしているわけではない。けれども、おもかげが胸にあらわれるやいなや、心が恐れおののいて、閉じてしまう。そのおもかげを胸から追い出してしまう。

 

10首の連作「桜咲くころ」には、妻の死を悼む歌、つまり挽歌がならぶ。この一連には、たとえば次のような歌も含まれている。

 

・ゆつくりと嚙みしむるやうに煮炊きする後ろ姿のなし 夏過ぎて
・だしぬけに彼方(そつち)に君は行つてしまひ此方(こつち)で俺の哭く夜がある
・ねんごろにマニキュアしてゐし指先のその割れやすき薄き爪はも

※( )内はルビ

 

もちろん忘れたいわけではない。けれども君を思い出してしまったら、君がもうここにはいない、という事実を突きつけられる。そのとたんにさまざまな感情が溢れ出す。哀しさ、寂しさ、悔しさ、心細さ、あるいは怒り……そういった感情が自分を満たしてしまう。君がいないという事実が、自分の感情が、怖い。だから反射的に、心は君のおもかげをうち消そうとする。

 

閉じようとする瞬間の心が、読者である僕にも一瞬だけ見える。なんの覆いもない、じくじくと血のにじんでいるような、真裸の心がそこにある。びくびくとして弱りきっている。思い出したいとか、いつまでも君の思い出に浸っていたいということならばわかりやすい。いや、いつまでも浸っていたいという気持ちがないとは言えない。むしろそういった気持ちこそ強いのではないかと僕には思える。しかし、心の動きはそれを望んでいない。傷つき疲れきった心は、おのずから閉じてしまう。

 

そして同時に作者は、そのような心の動きを俯瞰して見つめているわけだ。だからこそこのように詠いとどめることができたとも言える。

 

「立つやこころのをののきて閉づ」についてすこし詳しく見てみると、「立つや/こころの」と句割れを起こしており、また「こころの」以降には、「こ」「の」のくりかえしをベースとした、オの音の連続がある。それらによって、すこしせわしない音の連なりが生まれているように思う。そのせわしなさが、あわてたように反射的に閉じてしまう心のありようとかさなる。

 

君を失ったことによる心のありようはもちろん痛々しく、たいへんに繊細な印象を残す。しかし同時に、その恐れおののいている心を感じ取るもうひとつの心も、そこには存在する。そうやって感じ取ること自体もまた、たいへんに繊細ないとなみであると僕は思う。苦悩や疲労の真っ只中にありながら、透徹した眼差しがまぎれもない。

 

この歌においては、あるひとりのごく個人的な心の動きが、個人の枠を超え、普遍性をさえ獲得していると思う。少なくとも僕は、この一首に共感を深くする。そしてその共感によって僕は、歌のなかの恐れおののく心から、それを見つめる心から、いつまでも目を離すことができない。

 


 

2018年の「一首鑑賞*日々のクオリア」を担当します、染野太朗です。
どうぞよろしくお願いいたします。