光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』(書肆侃侃房、2016年)
歌集のなかの「0歳の質量」という10首連作のうちの一首。1、3、5、7、9首目がすべて「0歳」という語から始まる。
連作にはほかに次のような歌も並ぶ。
・0歳を量らむとしてまづ吾が載りて合はせぬ目盛を0に
・クリスマス・ツリーができるまでを見せ眠たげなれば家路をたどる
・0歳の質量は冷え窓際に寄するゆりかご陽に満ちはじむ
・ことばもてことば憶ゆるさぶしさを知らざる唇(くち)のいまおほあくび
※( )内はルビ
*「合はせぬ」は「合わせた」の意味
たとえば4首目の「ことばによってことばを覚える」とはどういうことなのか、その「さびしさ」とはどんなさびしさなのか、また、そのようなことばをまだ発したことのない「唇」とその「大あくび」からどんなことが読みとれるのか、といったことを、歌集全体の文脈に起きながら考えてみるのもおもしろいと思うのだが、今日はとにかくタイトルの一首を読む。
読む、といっても特にむずかしいところはないから、読者として身がまえる必要はないだろう。かるく握られたわが子の指をいっぽんずつひらいていったら何もなかった、というだけの歌だ。
それなのに僕は、いつまでもくりかえしこの一首を読んでいたいような気持ちになる。漢字からひらがな書きに展開されて、そのなかで指のいっぽんずつが見える。客観的に動作を説明しているのだと思ったら、一字空けのあと不意に「ふふ」というかわいらしいオノマトペが挿入され、いきなり微笑みがあらわれる。その微笑みからなだらかに手渡される「何もなし」。この「何もなし」には客観的な説明と直接の心情が混じり合っているような感じがあって、なんとも印象的だ。赤ん坊の手のやわらかさとかわいらしさと、それを見つめるやさしい表情が、じんわりとこちらに染み入ってくる。
何もないのである。しかも、掌のなかに何もないということは、あらかじめわかっていたはずだ。けれどもその何もないということが、上に見たような歌の構造、ことばの力によって、たいへんにゆたかなものとして提示されている。だから、「何もない」とは到底思えない。
「何もない」ことがただただゆたかなこととしてある「0歳」の子も、いずれその手にいろいろなものを得、手放し、また、持たなくいいものだって持つようになる……といったところまで読み込むことももちろんできると思うが、なんだかそれは野暮なことのような気もしてくる。