灼(や)きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

中城ふみ子『乳房喪失』(作品社:1954年)
※表記は菱川善夫編『新編 中城ふみ子歌集』(平凡社:2004年)に拠る


 

口づけの相手の情熱に対して自分のほうはどこか冷めていて没入できない、その虚しさについての歌なのか、というとそうだと思う。そうだとは思うのだけど、この歌のもっとも残酷な、つまり感動的な部分はあけているはずの「目」が機能していないことだと思う。
のちに早逝することになる中城ふみ子の境涯に寄せすぎていないか警戒しながらも書いてしまうのだけど、この目には無惨な死の気配がある。「目をあけて」というときに意識される視覚情報がいっさい歌の上に表れないからだ。目も眩んでしまうほどのやばい口づけ、という方向の読みは、一首の冷ややかさと、「うけたる」という受け身な態度が否定する。
生き物の身体のなかで機能が失われたことがいちばんわかりやすい、象徴的な器官が目であることは経験的に共有されている。人が亡くなったときに真っ先に瞼を閉じてあげる、という習慣があり、スーパーの魚売り場で魚の目に立ち止まってしまった経験がある人も多いだろう。その目を直視すること、されることは禁忌の領域に近い。しかしこの歌は、何かを見るでもない、伝達するでもない目を三句目という中央にひらいてみせる。
それにしても初句は過剰だと思うけれど、機能を放棄した三句目の「目」を通して読み直すこの初句には、精神を灼きつくすものがかならずしも身体を灼きつくしはしないことへの諦めさえ感じてしまう。その諦めに触れるときはじめて「かなしみ給へ」という依頼にわたしは頷かざるを得ない。この歌はかなしい。

 

わが歌に瞳(ひとみ)のいろをうるませしその君去りて十日たちにけり  与謝野晶子